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孤独が紡ぎ出す時間

ひとりでいる時間は、決して苦ではない。

これまでの半生を振り返った時、私はいつから人と比べて少し偏った事柄を思い始めるようになったのだろうか。


もしも私が、みんなと同じ時間を同じように過ごしてきたのなら、単身で上京を志すどころか、他人と比較して捻くれるような考え方に至ることはなかっただろう。

仮に上京するにしても、友人たちと囲まれるようにして乗り込むみたいに「周りの人がそうしているから」といった、無粋な考えを持つ可能性は大いにあったかもしれない。

それはそうとして、私はこれまで大人になる過程で、人と同じ場所で同じ時間を同じやり方で過ごすことを、常に許されていなかった。

どれだけ自分が誰かと一緒にいたいと望み、勇気を持って行動に移したとしても、夢は夢のまま果たせず闇に葬り去られてしまうことばかりであった。

仮に許されたとしても、一瞬にしてほんのかすかな時間しか確保できず、再び孤独の時間が舞い戻ってくる時の絶望感は、筆舌に尽くし難いものがあった。

人と一緒にいる時間をろくに過ごせないまま、やがてひとりでいる時よりも人に囲まれている方に対して、不安が強く募っていくことを覚えてしまった。


その一方で、人と比べて少しでも劣っているものや、秀でているものが一つでもあるとして、それらを彼ら彼女から嫉妬や軽蔑の意を込めて見下されていた。

そうした結果、その場からなんとしてでも自分を守るために逃げざるを得なかった。多勢に無勢という言葉自体を知らずとも、自分自身が直面している問題において自然と体に馴染ませながら。

人の波に逆らえず飲み込まれてしまった挙句、自分は人と比べて違うのだと言い聞かせるようになってしまったとするなら、そこが人生における分岐点になっていたのかもしれない。

ひとりで立ち向かうことなど、漫画の世界みたいに現実は簡単に実を結ばないと知ったその日から。


けれど、それはそれで良かったのかもしれない。おかげで他人と比べて、先にひとりの時間に身を投じ、そして長く居続けてきた。

だからこそ、より自分で物事を考えることを、これより生きていく上での手段の一つとして一足先に早く手に入れることができた。

それはひとりでいることに対して「慣れる」という要素も含まれているかもしれない。単にひとりの時間をボーッと過ごすのではなく、自分の中の何かを変えていくためにあれこれ模索する手段を得たのだと思う。


人はひとりで生きていくことはできない。だなんて綺麗事はよく耳にするが、万が一、人づてに頼らず自らの手と知恵で生きていくことを余儀なくされた場合、どうやっていくのが今後の己自身の人生を輝かせるうえで正解に導けるのか。

それは直接言葉にせずともわかることだろう。この後に及んで、自分以外の誰かに答えを導かれたり委ねることは、他人のために自分が生かされているとしか言いようがないのだから。

今さらになって過去や当時の自分に起きたことを振り返るのも、正直愚にも付かないことなのかもしれない。

ただ、人と異なった生き方をしてきたことを、たった一つでも語れることで自分を生かし続ける理由となるならば、とんだお笑い種となったとしても人としての個性が僅かばかり生まれてくるのだろう。


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