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【随筆】わが郷愁の「南海コレクション」 ⑩

『南海コレクション』のコレクター Dr.緒方保之氏の肖像


 2019年6月7日~8月6日まで、大分県立美術館OPAMで開催の『エコパリと竹展』会場に貼られた案内。

 前副館長の加藤康彦氏が、南海コレクション図録のために書き下ろした文章が掲げられました。


     終わりに

 OPAMコレクション展示室に貼られた、上の案内を見つけた瞬間、私は嗚咽を抑えることができなかった。

 日曜夜の会場、その日は近くで花火大会が開催ということもあり、観覧者は私一人。

 長いこと、鼻先を掌でおさえた姿で、案内板の前に立っていた。


 昨年の冬、当時の加藤副館長を掴まえて、私は延々と、どうか南海コレクションの由来を伝えて欲しい、コレクターの功績を認めてほしい、と嘆願した。

 その時の加藤氏の答えは、
「大分県としては、じょじょに南海病院の名前も、コレクターの名前も、消していく方針です」

 すべては時の流れなのか…。

 でも、どうしても諦められなかった。

 その後、コレクションを題材にしたミステリー小説1000枚を書き下ろし(未発売)、他にも短編を書いた。

 佐伯市にもたびたび足を運び、街の人たちを誰彼なしにつかまえては、図録などを見せながら、南海コレクションを守ってほしいと訴え続けた。

「絵なんてわからないし、興味ない」

 と言う方がほとんどだった。

 OPAMに収蔵以外の美術品が展示されている病院を訪ねてみると、藤田嗣治やローランサンが、哀しげに傾いたり、染みだらけのまま掛けられている。

 やがて、病院じたいの建て替え工事がはじまった。

 新しい病院ができたら、緒方先生が建てた《病院美術館》が、解体されてしまう!

 激しい焦りの中でもがきつつも、とにかく自分のできることを続けるしかない、と決めた。


 そして今回のコレクション展がはじまったとほぼ同時に、思いがけない事態が起きた。

 南海コレクションに関しては日本で一番詳しい加藤康彦氏が、なんと佐伯市に転属になったというのだ!

 天啓。

 そう思った。

 これでコレクションは息を吹き返すにちがいない!


 ……さて、と。

 最後に、緒方先生がなぜ、大分県のはずれ、佐伯市という片田舎に、600点に及ぶ巨大なコレクションを遺したのか、その理由について話さなくてはならない。

 それこそがこの、やや長くなってしまった随筆を書いた目的である。


 私が院長室に通っていた頃、緒方先生は、佐伯から東京まで、列車と飛行機を長時間乗り継いで、毎月通っていた。

 社会保険医学会の会長だったそうで、その仕事のためと、そして銀座の画廊に寄るためである。

 銀座に行った翌日、病院にお邪魔すると、いつになく活き活きとして機嫌がよかった。

「土曜日、○○のところに行ってね」

 と、馴染みの画廊オーナーの名前を出す。

 画廊の人が持ってくる絵を、一点一点吟味して、丹念に調べて、慎重に選んでいた。

 なぜ先生がそこまでして、絵を買い集めたかーー。

 その本当の理由を知る人は、おそらくもういないだろう。


 コレクションを目にした人たちは決まって、

「お金持ちだったのね」

 と言う。

 そしてネットには、公の病院にこれだけのコレクションがあるとは、

「怪しい病院」

「謎の医者」

 などの文字が並ぶ。

 でも私は、知っている。

 何度も、何度も、耳にタコができるくらいしつこく、緒方先生が、絵を買う理由を、私に話して聞かせたからだ。

 最終章に当たり、どうしてもその話をしなくてはならない。


「ぼくはね、この病院から、年間○○○○万円も給料をもらっている。それを、患者さんたちに、還元しなくちゃいかん」

 先生はこの話をする時、決まって「~しなくてはいけない」
 と、自分を律するように言った。

「ぼくは、この病院に恩がある。今まで食べさせてもらった。その恩返しをしなくてはいかん。ね?」

 クセの「ね?」が語尾につく。


 私はその話を聞くたびに、

「立派な人だなあ」

 と、子どもながらに感心したものだ。

 とにかく、

「患者さんに還元しなきゃいかん」

 という言葉を、どれだけ聞いただろうか。

 この文面からもわかっていただけるように、緒方先生は、病院の絵を、自分のお給料やポケットマネーを工面して、買っていた。

 少なくとも、私がよく会っていた、1975年から、1980年か81年まではそうだ。

 確かに、当時の南海病院は、とても儲かっていた。先生独特の経営方針によって、医師としてより、やり手の経営者として有名だった。
 だから私は、緒方先生が医者であることを、会って三年以上も知らなかったのだ。


 先生との別れは、突然にやって来た。

 1987年、東京からもどった私に、両親が真っ先に伝えたのが、緒方先生の死だった。

 その時の自分の気持ちは、あまりにも複雑すぎて、言葉にするのが難しい。………小説に書いたので、機会があればそちらを読んでいただきたい。

 緒方先生は67歳の若さで、現役院長のまま、突然旅立った。

 そして私はといえば、じきに先生のことも、絵のことも、忘れた。


 再び思い出したのは、それから30年も経った2017年2月のこと。

 雪の降る寒い夜、整形外科に入院中で、眠れず暗い廊下をひとり歩いていた。

 その時、あたかも雷に打たれたかのごとく、突然緒方先生の面影が脳に蘇り、同時に、涙が一気に迸り出た。

 緒方先生がいてくれたら、何もかもが一瞬で解決するのに……

 病は治らず、親は二人して倒れ、私は人生のどん底にいた。

 涙は朝まで、次の日も、何カ月も、溢れ続けた。


 緒方先生は、私の長い人生の中で、100%私の味方でいてくれた人だ。常に私を守ってくれた、ただ一人の人である。

 あの時代、先生がいたからこそ、生きてこられたと、今、心から思う。

 言い換えれば、緒方先生がいなければ、私は生きてこられなかった。

 医者としてではない。人生の教師として、あるいは図々しいながらも友として。

 40も年の離れた人間が、5年か6年も、ケンカ一つせずに仲良く過ごせたのは、よほどウマが合ったというか、今思うと、二人とも飛び切りの変わり者であったのは事実だと思う。

 勘のいい緒方先生は、たぶん私と会った瞬間にそれを見抜いた。

 私は私で、家よりも学校よりも、先生の院長室が、居心地よく、安心できた。

 いわば佐伯時代の私の居場所は、南海病院の院長室だったのである。


 最近私は、出身高校を訊かれると、出た高校の名前ではなく、

「南海病院、緒方学級の、ただ一人の卒業生です」

 なんて答えたりする。

 実際に高校はサボってばかり、院長室には真面目に通ったから、そのとおりなのだ。

 いや、日数の問題ではない。

 緒方先生から学んだこと、経験できたこと、それらが今の自分の礎となっていることは間違いない。


 最後に、先生が私にくれた、大好きな言葉を。

「教養とは、優しさだよ。…ね?」



今回のコレクション展トップを飾った藤田嗣治「裸婦」。この素晴らしい乳白色の肌は、緒方先生から佐伯市民、患者さんへのプレゼント。そのことを忘れないでほしい、と思います。(図録『南海コレクションⅡより』

(肖像画像の左手に掛かっている絵は、アラン・ボンヌフォア「裸婦」。『南海コレクション』は、裸婦率高し! コレクターの趣味です。笑)


※『わが郷愁の《南海コレクション》』終わり。

 最後までお読みくださった皆様方に、深く感謝申し上げます。


 明日のOPAM展示会最終日は、台風で大雨の予報。。


 次回は、『南海コレクション』の故郷、佐伯でお目にかかれるのを楽しみに!


 
 長い間お付き合いくださり、どうもありがとうございました!!



ここ数年で書きためた小説その他を、順次発表していきます。ほぼすべて無料公開の予定ですので、ご支援よろしくお願いいたします。