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短歌の「生々しさ」について


はじめに

本記事では、斉藤斎藤(2014)の論を引きながら、短歌における「事実らしさ」に焦点を当てます。さらに、「事実らしさ」を「生々しさ」と読み換えて、その特性を分析します。この記事を通じて、短歌を詠む際のコツのようなものが掴めると思います。

読者から見た「事実らしさ」?

斉藤斎藤は現代短歌における「事実」を「事実らしさ」として捉え、以下のように解説しています。

 前述の通り、現代短歌の「事実」とは、読者から見た「事実らしさ」である。だから作品の「事実」判定は、その読者が持つ「ふつう」の物差しに大きく左右される。
 「作者は実体験を書く」という約束事が強固であれば、どれほど異様な歌であっても、読者はそれを事実として丸呑みする。しかし現代短歌では、読者にとって「事実」らしくない出来事は、「空想」として処理されてしまう。そのため、作者が異様な実体験を作品化し、それを「事実」と見なしてもらうためには、読者に受容可能な範囲にまで異様さを抑制しなければならない。現代短歌は、作者の実体験から自立したことで、こんどは読者の「ふつう」の呪縛を受けることになったのである。

斉藤斎藤「読者にとって『空想』とは何か」『歌壇』2014年8月号 p.33


「事実らしさ」は、「現実感」や「リアリティ」とほぼ同じ意味で使われています。読者が作品の描写を「ふつう」にありそうだと思えれば「事実らしい」と判定されます。

読者の「ふつう」の感覚については別記事「読みの外部要因と内部要因」で触れたように、読者の内部要因が影響します。簡単に言えば、読者の持つ知識や経験によって、同じ作品でも異なる感じ方や質感を受け取ることがあります。例えば、作品内に幽霊が出てきた場合、現実世界に幽霊はいないと考えるなら「事実」とは受け取りにくいでしょう。一方で、現実の世界観が固まっていない幼い子どもなら、幽霊の描写を信じる可能性もあります。

では、具体的に読者の「ふつう」の範囲内で書かれた歌を見てみましょう。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 

斉藤斎藤『渡辺のわたし』

こちらは斉藤斎藤本人の歌です。「県道」も「のり弁」も読者が日常的に目に触れやすい「ふつう」の物です。2023年現在で、日本在住の方であれば特に違和感なく描写に入り込めるでしょう。その前提の上で読みがはじまります。筆者は「なんでしょう」ともったいぶられた先に「のり弁」が現れて脱力感を覚えましたが、どうでしょうか。あまり目にしないようなシーンですが、読者に「ふつう」の範囲内で描写されているため「事実」のように感じられます。

「事実らしさ」の力

では、短歌においてなぜ「事実らしさ」がポイントになるのか考えてみましょう。結論、読者が描写内容をイメージし始めるためには内容を信用する必要があり、その信用する根拠に「事実らしさ」が使われているからだと考えます。

短歌は文字情報であり、読者は自らが知っている知識の範囲内で情報を処理します。文字情報は現実世界そのものを表現することはできませんし、誤っているかもしれません。読者は情報をどれだけ信じるかは、その情報の「事実らしさ」に大きく依存します。

極端な例ですが、詐欺の手法としても「事実らしさ」が使われています。例えば、オレオレ詐欺では、犯人が被害者の家族の詳細な情報を踏まえて会話をしたり、警察などの信頼できる第三者を装うことで、被害者を騙します。詐欺師の言葉の中に、被害者が「これは事実だろう」と判断するポイントが存在するわけです。この仕組みが、短歌にも適用されてます。

余談ですが、イギリスの詩人のコーリッジが述べた「不信の停止」という考え方があります。これは文字通り、わざと疑わないことを意味しています。フィクションの物語に没入するには、描写がその作品内での「事実らしさ」を持っていることもポイントになりますが、読者自身がその作品世界を疑わないことも重要になります。短歌では「不信の停止」がシステムとして共有されていないので、人によっては作品を楽しめない場合があります。

「事実らしさ」を言い換える

「事実らしさ」という言葉は「現実世界」を想起させてしまいフィクション作品で応用しにくいので、主観的な感覚だけを残した「生々しさ」という言葉へ言い換えてみます。作品中で何らかの意味のある描写をしようとすれば、空間、存在、意思のいずれかを対象に書くことになるため、「生々しさ」をこの3つの点から分類してみます。

空間、存在、意思の「生々しさ」

定義

空間、存在、意思についてそれぞれの定義を考えすぎると沼にはまるので、本記事においては以下の意味でご理解いただければ問題ないです。詳細な定義については今後の課題です。

空間→描写される場所や環境
存在→描写対象そのもの
意思→何かを対象にとる意識

空間と存在の「生々しさ」の出し方

空間と存在は密接に関わり合っています。何もない状態の空間は考えにくいですし、空間がないところに何かが存在することも考えにくいです。空間と存在が客観的にそこにあるのかといった哲学的な議論はここでは一旦控え、そこにあるものと仮定します。

今回、空間と存在を意思から切り分けていますが、読者が描写している内容から意思を読み取ってくれるので、結局、意思を表現しているとも言えます。特に感情を動かすことに特化した風景は「情景」と呼ばれます。

空間と存在は「生々しさ」を出す方法が似ているのでまとめて検討します。ここでは「解像度」と「一回性」をキーワードとして考えてみましょう。

(1)解像度
「解像度」という言葉は、一般的にはテレビ等の画面の細かさを指すものですが、短歌の評の文脈では「描写の詳細度」として使われることがあります。つまり、描写の粒度に関する表現です。一般的に、解像度が高い描写をしたほうが主体がその場所にいる感覚を読者に伝えやすく、結果として読者が信用して「生々しさ」を感じさせてくれます。ただ、あまりにも詳しく描写すると作品のテンポや面白さが失われることがあるので、適度なバランスが大切です。

描写の解像度を上げている歌の例を挙げます。

最上川逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

斎藤茂吉『白き山』

地名で地域の雰囲気を呼び込む点に加え、逆白波さかしらなみという造語が波の形、色、勢いを見せます。音を立てて波立つ大きな川と、静かで厳しいふぶきの夜の空間が描写されています。

次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

奥村晃作『三齢幼虫』

現実世界の「言われてみれば確かにある!」という風景や出来事を描写する手法は「発見」と呼ばれます。奥村の歌では運転手をピンポイントで描写することで、人々が前だけみているor見させられている現実の光景の違和感を伝えます。

(2)現場性

「現場性」とは、現場にいるからその描写ができると思わせる性質を意味しています。こちらは語彙の選択に関わります。現場性については穂村(2011)が『短歌の友人』の「<リアル>であるために」で挙げている以下の歌を見てみましょう。

うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏

村木道彦

この歌では、「うめぼしのたね」という一見ありふれた名詞が登場します。しかし、その語の選択がベンチに具体性を与えています。この具体性を帯びる理由は「うめぼしのたね」が簡単に出てくるアイデアではなく、読者が実際にありそうだと感じて描写を信用してくれるためです。穂村は作品中の「うめぼしのたね」の語を「我々の意識の死角に入っているような言葉」と評しています。現場にいなければわからなそうな、ありそうでないラインの語の選択が、現場性を感じさせます。フィクションで現場性を出そうとすると時間がかかってしまうので、実生活をヒントに詠んだほうがつかみやすいです。

意思の「生々しさ」

意思の「生々しさ」は基本的に主体の意識の流れを描写している感を出している作品に生じます。口語短歌でよく話題になるキーワードで言うと、主観的な認識の再現、切実さ、関係性等がこの感覚を生みます。意思の「生々しさ」を出すための技術は多数ありますが以下に3首例を挙げてみます。

(1)主観的な認識の再現

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

この歌は、日常生活でありそうな話し言葉による記述と、主体の思考の流れを捉えた描写によって「生々しさ」を出しています。まず「あの」によって、読者の視線は特定の青い電車に向けられます。「もしも~されたり」の部分で事故のシミュレーションが行われ、読者もシミュレーションを体験し、読者はもの瞬間の主体の感じる不安を共有します。最後の「するんだろうな」という言葉で、「そうなるだろうな」と読者も主体の感覚にあわせて、ぼんやりとした共感に浸ることができます。

(2)切実さ

とても私。きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ

雪舟えま『たんぽるぽる』

こちらの雪舟の歌は統語に乱れが発生しています。具体的には「とても」は程度の表現であり、「私」や「ここへ」には通常の文章ではつながりません。「きましたここへ」の部分で倒置もおこっていますね。言葉がみだれていることで、主体の発話の勢いを感じさせ「切実さ」を出すことに成功しています。

(3)関係性

ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね

東直子『青卵』

この歌では明確なイメージや意味を立ち上げきらず、生々しい感情や雰囲気だけを伝えます。「ママン」という言葉の繰り返しや、子どものような口調、すがりつく言い方から、読者はどこかさみしさを感じ取ることができます。どうやらこの感情は口調のパターンや親子間の関係性のイメージにリンクして発生しているようです。幼い頃の感情や記憶は、多くの作品で取り上げられるテーマですが、この歌では幼少期の焦燥感を掴みとってきています。解釈の余地がある描写のおかげで何度も読み返せる歌になっています。

おわりに

本記事では短歌における「生々しさ」の効果と「生々しさ」が見られる歌の分類をしてみました。助詞の使い方や韻律などなど、さらに詳しく分析することもできますので、読者の方もご自身の作風に合わせて研究を進めてみてください。

次の「読み書きの『モード』とファンタジー短歌」の記事では「生々しさ」を「モード」という考え方に接続します。ぜひこちらも続けてお読みください。

参考文献

・奥村晃作『三齢幼虫』(白玉書房)1979
・斎藤茂吉『白き山』(岩波書店)1949
・斉藤斎藤『渡辺のわたし』(港の人)2016 
  〃   「読者にとって『空想』とは何か」『歌壇』 2014年12月号特集「短歌の空想の力—フィクションとファンタジーの魅力」(本阿弥書店)2014
・永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark)2012
・東直子『青卵』(本阿弥書店)2001
・穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社)2007
・雪舟えま『たんぽるぽる』(短歌研究社)2011

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