【短歌】イメージへの「抵抗」を考える
はじめに
今回はまず「頭で作っている」という評の言葉から、短歌で課題になりやすい点を探ります。次に、文字を読んで何かをイメージする際に発生する「抵抗」について取り上げます。
本記事は、以下の記事の続きです。理解しやすくなるので、可能であれば先にご一読ください。
「頭で作っている」とは?
「頭で作っている」という表現は、作品中の表現がイメージしにくく、読者にとって実感を伴わないように思われ、作者が現実世界を観察せず、想像に頼り歌を作ったと感じさせるぐらいの意味です。時々、歌会や紙面で見聞きすることがあります。
この表現は思想が「リアリズム」に偏った見方を反映しており、表現に対する具体的な指摘が欠けるため、なるべく使わないのが無難だと思います。
ただ、この発言が出てくるパターンを掘り下げるとフィクションで短歌を詠む際に役立つ情報を得ることができます。では、「頭で作っている」と言われやすい3パターンについて見ていきましょう。
①抽象的な描写
描写が具体的なほうが読者はイメージしやすくなります。内容をイメージできれば作品に没入しやすく、感情が動きやすくなります。抽象的な表現で失敗しやすいのは、「鮮やか」のような意味だけの語を特に文脈を考慮せずに置くことです。
具体的な名詞だとしても、そのままポンと置くような使い方では、イメージがしにくい場合もあります。例えば、「リンゴ」という語を目にしたとき、どんなイメージが頭に浮かびますか?
おそらく正面からのぼんやりとしたリンゴの絵か、3Dイメージが頭に浮かぶと思います。名詞も何らかの文脈に置かれないと生のイメージ(スキーマ)のままで実感がわきにくいです。もしも「中世ヨーロッパの港町に馬車で運びこまれる山積みのリンゴ」のように、文脈があればより鮮明にイメージができるはずです。
②環境設定がない
作品中に椅子のような物体や、キッチンなどの具体的な場所の名詞が入っていないと読者は周辺環境をイメージするのが難しくなります。もし環境設定がない場合、空間ではなく音声として作品を読むことになり、視覚的な情報量が失われます。もちろん意図的にやっているなら問題ありません。しかし、環境設定は視覚優位の現代人にとっては重要な情報になります。
③倫理的に問題がある
こちらは価値観の面でひっかかりがあるパターンです。フィクション論の中で「想像的抵抗」と呼ばれる問題があります。
例えば、作品中で何らかの理由があり「民族虐殺は正当である」という思想が提示された場合、多くの読者は自身の倫理観から受け入れがたく感じます。これは、読者の強固な倫理観がフィクションにおいても作用し、想像ができない、または想像したくなくなるためだと考えられます。
この問題については、岡田(2021)の論文で過去の議論が整理されているのでぜひご一読ください。
イメージへの「抵抗」のレベル
どうやら作品を「頭で作っている」と感じる閾値(境目になる値)のようなものがあるようです。この閾値を越えると「抵抗」が発生します。この抵抗は、読者が作品の内容と現実世界での経験を比較した結果生じます。
読者によって閾値が異なるはずなので、本来は個別具体的に事例を見ていくべきですが、一旦、先ほどの3つの例で検討してみましょう。
①抽象的な描写
抽象的な描写のレベルを以下のように分けてみます。
LV.2から読者は抵抗を感じはじめる可能性があります。読者ごとに許容可能な語彙の閾値がありますが、この境目は過去の経験からどれだけ文脈を参照できるかによって変わります。
抽象度が高めでも成立している作品としては以下のような歌が挙げられます。
この歌では具体物である「ひまわり」と地域名「アンダルシア」をイメージの核として用いています。結果として、スペインアンダルシア地方のひまわり畑の光景を読者からひきだし、ギリギリ景を成立させます。また、リフレイン(繰り返し)を用いて遠いアンダルシアへの憧れを表現し、情感を与えます。憧れの情感を邪魔しない程度の抽象度になっているので景がちょうどよく感じます。
②環境設定がない
以下、環境設定についてもレベルを分けてみました。
基本的には環境設定をしたほうがよいと考えますが、歌の内容に適していれば無視できるケースもあります。Lv.3の例として、枡野浩一の歌を挙げます。
この歌からは主体の周辺環境が読み取れませんが、言葉そのものの響きと意味を感じることができます。あらゆる環境を想定でき、共感性の高い歌だといえます。
この音声だけのスタイルは単語の語彙の面では初心者向けですが、抽象度が高く失敗しやすい点や単語が限られてしまうことから、長期的には初心者向けではありません。また、縛りが多い中でプロのコピーライター(枡野浩一)と競うのはあまりおすすめできません。
③倫理的に問題がある
こちらも現実世界と比較した場合でレベル分けをしました。
短歌では現実世界の倫理観に反した主体像を作ることもできます。以下の歌はLV.3に該当すると思います。
この歌は9.11米国同時多発テロを題材にしたもので、紐育(ニューヨーク)の世界貿易センターの事件を映像をみた主体についての歌です。一般的な倫理観とは反する視点を扱っており、一時期歌壇で議論になっていました。歌人として作品に倫理的な責任があるなしの話は本論から離れるのでここでは割愛します。
テロで亡くなった人々に思いをはせると、倫理的には「壮快」と表現することに対して抵抗感を覚えるでしょう。このような現実世界の倫理観に反した主体像は、読者にとって主体との同化が難しくなり、抵抗を引き起こすことがあります。
イメージへの「抵抗」についての考え方
イメージの抵抗は、必ずしもなくす必要はありません。その表現の不思議さ、歪み、飛躍が作品の持ち味になる可能性があります。筆者の好きな歌を挙げます。
この歌を含む連作「永遠でないほうの火」は2013年に短歌研究新人賞の次席になっています。心象として具体的なイメージを構成できず、何らかの抵抗を感じると思います。しかし、抽象的なイメージを手渡しながら、さみしげでやさしい感情を伝えてくれます。
抵抗部分の扱いは作者の信念の問題になります。読解の負担になる可能性があるため、読者を選ぶこともあります。抵抗を和らげるために「生々しさ」を導入する手段が考えられるので、以下、過去記事もご案内します。
抽象度の高い歌でも実感があるように思うのは上記記事内の意思の「生々しさ」の部分で、感情移入できるパターンが多いように感じます。
さいごに
筆者としては、可能な限り作品で発生する「抵抗」は想定・把握しておくべきだと思います。しかし、短歌をはじめたての方には難しいと思います。よく言われることですが、初心者のうちは他者の歌を多読して先例を学び、語彙を増やして実体験を詠むのがベストです。
抵抗が発生しそうな箇所が一定予測できるようになるまでは歌会に行ったり、身近な方に作品を読んでもらって意見交換するとよいかもしれません。
参考文献
・井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房)2016
・大辻隆弘『デプス』(砂子屋書房)2002
・岡田 進之介 『想像的抵抗の問題について―物語参与の観点から』(閲覧日:2023年12月18日)
・永井陽子『モーツァルトの電話帳』(河出書房新社)1993
・枡野浩一『てのりくじら』(実業之日本社)1997
・『歌壇』2013年9月号(本阿弥書店)
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