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確率はたぶん、自分に向けられたものではない。

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どうも、お久しぶりです。じーもです。最近、どうも夜型の生活になっていて。朝起きるのが辛いです。寒いし。ずっと布団に入っていたい。なんでしょうね。あの、布団のあたたかく包み込んでくれる感覚は。(笑)

さて、今日はふと感じたことを書いてみます。と、言いながらも、前からうすうす感じていたことでもあります。

数字に埋もれる

この世の中。数字だらけです。目に見えること。可視化することによって評価し、比較している気がします。様々なものを。

そんな中で多く出会うモノの中に、「確率」があります。

起業してから3年後も存続している飲食店は〇%。
20代において、ある病気にかかってしまう確率は〇%。
一生のうちに交通事故にあう確率は〇%。

一回は聞いたことがあると思うんです。それを聞いて、
「え~、そうなんだ。(自分は関係ないけど)」
「じゃあ気をつけよう!明日からは行動を改めるぞ。(真剣)」
「いや、私に限ってそれはないだろう。(たぶん)」
みたいに思うことって、ありませんか?

それは、過剰な不安をあおることもありますし。逆に有効的な注意喚起になる場合もあると思います。ただ、私が思うのは、その確率は私自身(あなた自身)に向けられたものではないんじゃないの?ということです。

目の前に降ってきたこと

例えば、私の相方(いわゆる配偶者というかパートナーのこと)は高校生の頃に交通事故にあったことがあります。運よく今も元気に過ごしていますが、けっこう危なかったみたいです。

他にも、最近読んだ本の話ですが。浅井純子さんが書いた「目の見えない私が「真っ白な世界」で見つけたこと」では、ご本人のエピソードが語られています。ご本人は、健常者から障がい者へ。つまり、病気によって視力を失うこととなったのです。(だからといって、本の中身はかなりポジティブに浅井さんなりの視点で書かれています。)

このような例は、数えきれないほどあると思います。そして、目の前に振ってきた事実(出来事)に対して、

「どうして私がこんな目に。」
「よりによってなぜ私なのか。」

という想いが少なからず出てくると思うんです。
その心理の裏には、確率という指標が潜んでいると思うんです。

つまり、
「1万人に1人の確率なのに、どうして私が?」
「ほかにもたくさん人はいるのにどうして私が?」
というように。

確率は結果論であり、母集団を対象にしている

何が言いたいかというと。
確率が10%でも。30%でも。はたまた80%だったとしても。自分に降りかかることは、自分にとって100%だということです。

そもそも確率って。ある母集団(要するに一定以上の人の集まり)の中で。実際に起きた出来事をもとに数字を割り出した、いわゆる後出しじゃんけんみたいなものだと思うんです。

しかも、それはその母集団全体に向けられたものであって、一人一人の個人へ向けられたものではないように思うんです。

そう考えるとね。例えば、就職でも。進学でも。身近な友達や家族、親族の中でのことでも。確率というのは、本当にぼんやりとしたものだと思うんです。

だからといって確率を否定するわけではないんですけど。(そのおかげで事前に防げることだってあると思いますから。)
必要以上に、悲観することも。不安視することも。逆に過信することも。ないような気がするんですよね。

ん~と。
なっちゃったら仕方ないし、きっとなるようになるよ。
ってことです。(笑)

気を付けないと数字に埋もれてしまって、比較することでしか自分や周りを見れなくなることがあるような気がするんですけど。
そうならないようにできたらいいな、と思います。ゆるりといきましょ。

最後に。

実は最近、「一般社団法人和軸~Wagic~」というところで「じーものヒトリごと」なるものを書かせていただいています。その記事が800字以内ぐらいなので。今日久しぶりにnoteを書いてみるとびっくりするくらい文字数が少なくなっちゃいました。(笑)

よければ、そちらの記事も読んでみてください。ちなみに「わじっく」と読んで、邦楽(和楽器を奏で・歌い・踊る音楽)に関するWebサイトになってます。よければぜひ!(完全なる宣伝です 笑)

今回も最後までありがとうございました。よければ次回もお会いしましょう。では。


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