見出し画像

ミス・マルクス、フェミニストだって、理想通りには生きれない。

(ネタバレ含みます)


10月のはじめ、雨がざあざあ叩きつけるある日、カール・マルクスの末娘、エリノアの生涯を描く映画を渋谷に見に行った。

雨は靴の中まで容赦なく濡らし、その濡れた靴下をどうにか乾かそうとしながら、映画が始まるのを待った。

エリノアはカール・マルクスの娘であり、幼い頃からマルクスの考えを理解し、優秀だったエリノアは将来を渇望されるとともに、マルクスの死後、正統なるマルクス主義の後継者として期待され、労働者、女性、子どもを貧困と階級から解放するべく、権利向上のために生涯を捧げたエリノア。

その一方で、プライベートでは、偉大な父や不誠実な内縁の夫から搾取され続ける。

映画を見ながら、エドワードなんて嫌いだと私は思った。だって、女性にだらしがないし、お金遣いも荒い。エリノアの友人が、あの人はちょっとねえ、と諫めてくるレベル。一緒にいて不幸にしかならない。いい奴ではない。まず愛を囁いて、証明したいなら、まず前妻と離婚しろ。などずっと心の中でエドワードについての悪口を言っていた。

浪費家で、エリノアとは別の女性を取っ替え引っ替えするエドワード。それでも何度も許した。自身の体がどんなにボロボロになっても。自分の人間関係が崩壊しても。

エドワードがエリノアに囁いた甘い言葉は、エリノア自身ではなくエリノアが持つお金や、カールマルクスの娘、という社会的地位を得るためのものに違いない。それでもエリノアはエドワードにお金の工面をし続けた。

自身が搾取されるという現実は、理想や思想とかけ離れていき、エドワードとの愛を実現させるべく献身的な愛情を向ければ向けるほど、彼女は壊れていく。

エリノアが女性や子ども、労働者の権利向上を訴え尽力したのは19世紀。でも、今でも同じような問題は根深く残っている。

理想と現実との狭間で、自分の中の矛盾に苦しみ続けたエリノア。

私も、フェミニズムを学ぶ、端くれだけども、フェミニストだからって、正しい、自分が理想とする考えを通して恋愛や生活を絶対できるってわけではない。

この社会で、自分の思う通りに行動するのは難しいのである。

社会的な規範に押しつぶされたり、女だからと口を塞がれたりする。

今の社会にも、エリノアはいる。それは残酷な事実で、心が押し潰そうになる。でも、先人たちが粘り強く獲得してきたように。少しずつ権利を獲得していくしかない。

強く、そして弱きものには優しく。

理想を掲げ、それに向かって、進んでいきたい。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?