第1461回 まだまだブラックボックスの中に

1、読書記録344

今回ご紹介するのはこちら

出版社の編集者で、昭和の歴史探偵、半藤一利氏と親しく交流していたことがあとがきに記されています。

そんな著者が、太平洋戦争開戦のポイント・オブ・ノーリターン(帰還不能点)である昭和16年9月6日の御前会議に徹底的にこだわって調べまとめたのが本書です。

当時の新聞の縮刷版や、NHKアーカイブスの「日本ニュース」からの引用、

恵比寿にある防衛研究所史料閲覧室での調査など、考察の元となった資料は多岐に渡ります。

2、意思決定のその時に迫る

当時の総理大臣は近衛文麿。

御前会議の議案は「帝国国策遂行要領」。その要点は

一、自存自衛をまっとうするため、対米英戦争を辞せざる決意の下に、十月下旬をめどに戦争準備を完成する

二、戦争準備に併行して、米英に対して外交の手段を尽くし、我が国の要求貫徹に努める

三、十月上旬頃になってもその要求が貫徹し得る目途なき場合は、直ちに対米英開戦を決意する

というものでした。

会議の出席者は近衛首相以下、内閣の顔ぶれは東条英機陸相、及川古志郎海相、豊田貞次郎外相、小倉正恒蔵相、田辺治通内相、鈴木貞一国務相、

軍統帥部のメンツは杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、塚田攻参謀次長、伊藤整一軍令部次長、

事務方の高級官僚としては冨田健治内閣書記官長、武藤章陸軍省軍務局長、岡敬純海軍省軍務局長、

最後に原嘉道枢密院議長という構成とのこと。

多くの公式書類は昭和20年8月の敗戦時に焼却されてしまいましたが、

戦後に回想録が残されたものなどを丹念に拾うことで、この会議の様子が復元されていきます。

通例として御前会議は天皇は発言せず、形式的な裁可の場でありましたが、この時は異例のことでした。

昭和天皇は「遺憾の意」を表明するとともに

よもの海 みなはらからと 思う世に など波風の たちわがぐらむ

という祖父、明治天皇の御製を読み上げて「平和愛好の精神」を改めて思い起こさせた、というのです。

その場は凍りつき、一旦は外交手段を尽くして開戦を回避する、という雰囲気になったのです。

しかし結果はご存知の通り、異例の天皇の意思表示であっても流れを変えることはできませんでした。

御前会議を終えた武藤軍務局長が局内に戻って「戦争なんてとんでもない。外交をやらんにゃいけない。」と言ったことが部下であった石井秋穂の回想録に残されています。石井は「帝国国策遂行要領」の実質的な作成に当たっていた人物でした。

この時武藤局長が残した会議の速記録は石井が金庫に入れたが終戦時に焼かれたが

「ここには書けないことがある」

と石井は回想録に記しています。

核心に迫る展開は手に汗握るものですね。

戦後巣鴨プリズンに収監されていた武藤局長から石井宛に手紙が送られ、

それが防衛研究所に保存されているというのです。

しかしこれは未公開で閲覧禁止になっているとのこと。

石井が戦後に『大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯』をまとめた原四郎との往復書簡の中で以下のように書き残しています。

昭和天皇があの瞬間、戦争準備体制を一度御破算し「白紙還元」する唯一の好機であったが、不徹底であった。絶対に対米戦を避けるという不可触の条件のもとに再検討するのでなければ。

3、結局は戻れない

いかがだったでしょうか。

なぜ戦争になってしまったのか、戻れる時はなかったのか、を考えることはこれまでも数多くの戦史研究者が挑んできたテーマであり、

一般でも終戦記念日の度に問われてきたものでありましょう。

そもそも「よもの海」の和歌は明治天皇が日露戦争の時に憂いを詠んだものであり、いわばその時も天皇は戦争を避けたかったのに止められなかった、ということでした。

歴史は繰り返し、今に生きる我々も大なり小なり常に判断を迫られています。

また、後世の歴史資料となりうるものを残す、ということはなんと難しいことなのか、と改めて考えさせられますね。



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