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言語の狭間からこぼれ落ちるもの(ドミニク・チェン)

ドミニク・チェン「翻訳欲をかきたてられる本について」第1回
Les Fleurs du mal, Charles Baudelaire (édition de 1861) – précédées du fac-similé de l’édition illustrée par Henri Matisse(惡の華)”
by Charles Baudelaire(シャルル・ボードレール)

私は専業の翻訳家ではないが、物心がつく頃から常に翻訳や通訳を行う「訳者」として生きてきた。ポリグロットの親を持ち、数十カ国からの子弟が集まる国際的な教育環境で育つ中で、言語と言語の「際(きわ)」で時折生じる違和感や、意外な共通性を発見することに愉しみを覚えるようになった。

私は日本語とフランス語を同時に学んだが、同じ意味のことを表現しようにも、名詞に性別があるフランス語と、主語を抜かしてもフレーズが成立する日本語では、自分で発話したり相手の言うことを聴いたりする時に生じる感覚意識体験(クオリア)が全く違う。

完璧な翻訳なるものがそもそも不可能である、という意識を植え付けられた私には、言語間の厳密な対応関係を追求しようという気は芽生えず、大意さえ伝われば残りは修飾の問題であると言わんばかりに、仲間内では日本語とフランス語の混交言語(クレオール)を話すようになった。なんともいい加減な考え方だなと自分でも呆れてしまうが、そんないい加減さを正当化してみるとすれば、翻訳には無数のヴァリエーションが存在するという、原理的に多様性を肯定する思想を育んだといってもいいだろう。だから私は、人の話を聞くことも、本を読むことも好きになった。誰が何語で話していようと、その内容への興味に加えて、当人が「何を翻訳して話しているのか」ということに関心を持つようになったのだ。どういうことか。

つまり、ある人が単一の言語を話しているとしても、その人は自分が見知ったことや自らの体験を通じて感じたことを当該の言語に「翻訳」して話している。そういう認識がごく当たり前のように自分のなかにある。そして翻訳から常にこぼれ落ちるものがある。その隙間を埋めようとする行為に、翻訳者の固有のおもしろさが表出するし、こぼれ落ちたものが何であるかというサンプルを集めていると、誰しもが言葉に象れていない現象が浮き彫りになってくる。

そうして考えてみれば、自分が誰かに何かを話したい、と強く思う時も、私は自分の感覚の翻訳を行おうとしているのだと思う。それは日常的な、他愛のない会話も含まれるのだが、時として私は非常に強い「翻訳欲」に駆られることがある。それは仕事として翻訳を行うのではなく、誰に頼まれるでもなく勝手に、徹夜をしてでも、あるテキストを別の言語に翻訳したくなるのだ。これまでに、あるフランスの哲学者のインタビュー映像や、パリの爆破テロの際に妻を喪った男性のFacebookの投稿を、衝動的に日本語に訳してウェブで公開したのだが、その時に私を突き動かしていた動機の正体が何だったのか、いまだに上手に言語化できていない。

と、ここまで書いたある種の心情告白もまた、あまり人に語ったことのない想いを日本語の文章に「翻訳」したものである。あるいはこの文章を書き続けていけば、この謎に少しでも迫れるのではないか、とも思う。だから、この連載では一旦、「翻訳欲」をキーワードにして、もしも自分に無限の時間があれば、ぜひとも勝手気ままに翻訳をしたいと思わせられた英語とフランス語の本を紹介していくことにしよう。本棚を見渡すだけで、すでに数冊の背表紙が光って見える。読者の皆さんにも私の翻訳欲から発せられる熱量が1キロカロリーでも届けられれば幸いだ。

マティスが解釈する詩集『惡の華』

初回となる今回は、19世紀の中頃にシャルル・ボードレールが出版した韻文詩集『惡の華』に、アンリ・マティスが1944年に描いた挿絵を忠実に再現した本を紹介したい。

背表紙に書かれたタイトルを書き出すと、「Les Fleurs du mal, Charles Baudelaire (édition de 1861) – précédées du fac-similé de l’édition illustrée par Henri Matisse」(Paris: Éditions du Chêne 2007)とある。マティスの挿絵版の複写があり、その後に1861年版のテキストのみの版が収録されており、マティスの挿絵と一緒に読む体験と、原著の文章のみを通してボードレールの詩想を追跡する体験の二つを一冊で得られる構成になっている。本そのものの作りとしては、15.5cm x 10.5cmと小振りなサイズながら、500ページ弱の厚みを持っていて、本棚に置いていても独特の存在感を放っている。

ボードレールの詩集は高校生の時に読んだ限りだったのだが、先日たまたま父親の書棚を漁っていたら本書が埋もれていたのを発見し、表紙に描かれたポートレートの表情が、それまで抱いていた『惡の華』のイメージを払拭するような透明感を放っていたので、思わず「救い上げて」きたのだった。

原著は、1857年に初版がパリで刊行された際、そのエロティックな描写の数々が当時の文人たちの間でも衝撃とともに受け止められ、ついには公序良俗および宗教道徳に違反するという訴えを起こされ、数編の詩の発禁と違反金の支払いを命じられたことで知られている(本書では、検閲された作品を除いた1861年版だけではなく、それらを別の章で再掲している)。マティスは、発禁された二つの作品を含む全33品を選び、1944年に挿絵を描き終え、1947年に挿絵版を刊行したが、その後1949年にボードレールの発禁は破毀院(※フランスにおける最高司法裁判所)によって公式に解除されている。当時すでにフォーヴィスム(野獣派)の大家としてだけでなく、世界的な芸術家としての名声を得ていたマティスが、ボードレールの詩作に新しい解釈を与えたことによって、ボードレールの作品をただ字面通りに読むのではなく、象徴的に解釈して評価するという機運を後押ししたことは間違いないだろう。

マティスがシンプルな線で描いた女性や男性のポートレートは、微笑を湛えていたり、物憂げな眼差しを投げかけたりしている。それらはまるで、ボードレールの激しい文章の先に想起される恋人たちや詩人たちの日常の風景を切り抜いたかのように、そっと添えられている。また、乳白色の紙、原版よりも多く取られたページマージンに段落間のスペース、そして筆記体のドロップキャップ(※段落最初の字を大きくすること)というように、詩の一編ずつがまるでそのまま額装して壁にかけられるように大事にデザインされなおしている。

だから、これもまたマティスによるボードレールの「翻訳」なのだといえるだろう。ボードレールがマティスの仕事を見ていたら、「これは自分の意図したかたちではない」と思ったかもしれない。しかし、私たち読者は、本書を通して、ボードレールの詩作をマティスという画家がどのように感得したかというビジョンを味わう幸福を手にしている。

著しい誤訳や誤解は忌避されるべきであることに疑いようがないが、唯一の正しい解釈があるという強迫観念もまた、文化の豊穣さを妨げることにつながる。逆に、勇気をもって先人の創作に新しい解釈を付け加えることの大切さを本書は教えてくれている。

もしも本書の日本語訳を自分が担当するとしたら、マティスの画を観ながらボードレールの原文を訳し直してみたい。それは「ボードレールの訳」ではなく、「マティスが視たボードレールの訳」となるだろう。


執筆者プロフィール:ドミニク・チェン Dominique Chen
早稲田大学文学学術院・准教授。NPOコモンスフィア理事。株式会社ディヴィデュアル共同創業者。2008年IPA未踏IT人材育成プログラム・スーパークリエータ認定。
主な著書:『謎床:思考が発酵する編集術』(晶文社、松岡正剛との共著)、『電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる』(NTT出版)、『インターネットを生命化する:プロクロニズムの思想と実践』(青土社)、『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック:クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』(フィルムアート社)等。
訳書:『ウェルビーイングの設計論:人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社、渡邊淳司との共同監訳、ラファエル・A・カルヴォ、ドリアン・ピーターズ著)、『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(NTT出版、マレー・シャナハン著)。趣味は能とゲーム、糠床。

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