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異国人たちから見たナチス・ドイツの情景(園部哲)

「園部哲のイギリス通信」第13回
"Travellers in the Third Reich: The Rise of Fascism Through the Eyes of Everyday People"
by Julia Boyd(ジュリア・ボイド)2017年出版
日本語版は2020年9月刊行予定 白水社

あなたが1936年当時の英国人だとして、新婚旅行の目的地として夏のドイツを選んだとしてみましょう。太陽はさんさんと輝き、地元の人たちはみんな親切――これ以上何を望むでしょう。古城やブドウ畑を愛でながらラインラント(ライン地方)を走りぬけ、貨物を満載した巨大な艀(はしけ)がライン川をゆきかうのを、興味津々眺めたりします。さて、フランクフルトに到着です。GB(グレートブリテン=英国)という国籍識別バッジもあざやかなマイカーを駐めて町の見学へ出かけましょう。ヨーロッパが誇る中世建築を集めた珠玉の都市です。

すると、いかにもユダヤ人らしい特徴の顔つきをした女性がどこからともなく現われ、あなたに近づいてきました。不安が彼女の全身にみちています。彼女は、片足に障害者用の補高靴をはいた足取りおぼつかぬティーンエイジャーの少女の片手を、しっかりと握りしめています。ナチスについてあなたがこれまでに耳にしたおぞましい噂――ユダヤ人の迫害、安楽死、拷問や裁判なしの投獄などの噂があなたの脳裏を一気にかけめぐり、切羽詰まった気配のこの母親の表情に重なります。彼女は車のGBのバッジに目を留め、自分の娘をイギリスへ連れていってほしいとあなたに訴えているのでした。さあ、どうしましょう? 狼狽してしまい、彼女に背を向けてその場を立ち去ってしまうでしょうか? 同情はするけれど、わたしの手に負える話ではないと言い訳をしますか? それとも、少女の手を取って安全な場所へ連れてゆくことを決意するでしょうか?

これは実話です。そしてこの英国人夫妻にはやがてアリスという娘が生まれました。この本が出版される数年前、ある暑い夏の日の午後、ケンブリッジにあるアリスの家の静かな庭でレモネードをすすりながら、著者はこの話を初めて聞きました。アリスは一枚の写真を見せてくれました。微笑みを浮かべたグレタ――あのユダヤ人の少女が、赤ん坊時代のアリスを抱いておもりをしている写真です。その風変わりな旅の物語の帰結が驚くべきハッピーエンドに終わったことを知った著者は、自分自身を彼女の両親の立場に置いてみました。

同じ状況に迫られたら、どのような行動を取るだろう? 答えを出すのに数秒とかかりませんでした。どれほどその女性の窮状に心動かされようと、どれほどナチスに怖気を感じていたとしても、著者が「同情はするけれど、わたしの手に負える話ではない」と消極的な選択肢を選んでいたであろうことは、ほぼ間違いありません。そのような状況を想像してみるだけなら、とても簡単です。しかし、実際にその状況に立たされた者がどんな行動を取ることになるか、それを確実に予期できるでしょうか? 目の前でくりひろげられる出来事の意味合いを、どのように解釈するでしょうか?

リアルタイムで綴られたさまざまな「第三帝国」

この英国人夫妻のエピソードが本書のエッセンスを巧みに表しています。本書は、第一次世界大戦後まもない1918年から第二次大戦終結の1945年まで、とりわけナチスの勃興から隆盛時の「一般的」ドイツ社会の情景を、ドイツを訪れた各国からの旅行者、外交官、政治家、ジャーナリスト、学者、あるいはベルリン・オリンピックに参加した外国人選手らの残した日記、手記、記事などを通して再現した500ページ近い分厚い作品なのです。同国・同時期については無数の本がありますが、それら戦後の視点からの観察であり、第三帝国の破局的壊滅を知ったあと――つまり「後知恵」を頼りに書かれた本ばかりです。

それとこの本とが違うのは、著者が、戦後の知恵・常識に汚されていない「そのときその場で(then and there)」書き記された一次資料を蒐集することに努め、第三帝国のフレッシュな息吹(妙な言い方ですが)をタイムカプセルのなかに閉じこめたところにあります。醒めた客観的判断とは無縁な、自然体で「状況」にさらされて右往左往するおよそ180名の個々人の素直な反応がひしめきあっている。逆説的な言い方をすれば、むしろ井蛙の見であるからこその面白さが充満しているのです。

この生々しい手記のコレクションは、戦後の視点から見ると痛々しく、「間違い」をふくんでいるのですが、ひょっとすると21世紀の私たちが目下あるいは将来、身近な場所で感じるある種の気配を「既視感」として感知するための、先人達からの教えであり伝達事項なのかもしれない、と、読んでいてそんな気がしてきました。

「旅行者」たちの大半が英米人なのは、著者が英国人であることと一次資料へのアクセスの容易さからすれば無理もありませんが、当時旅行先や留学先としてドイツを選んだのは、資金力と知的つながりのある英国人・米国人が圧倒的に多かったという仕方のない事実もあるのです。ただし、黒人留学生や中国人留学生という人々がふくまれていたのは意外であり、白人旅行者とはひと味違う観点が大変興味深いところです。

政治・経済あるいは軍事・歴史といった観点からの書物ではなく、一般人が旅行者・生活者の立場で、街路・宿舎・自宅で感じ考えた、手垢のつかない生々しい手記を基に、かの一時代を再構築してみせた、淡々とした文章とは裏腹に野心的な作品で、その新鮮さと面白さが素晴らしいものです。二つの大戦の戦間期について歴史書ですでに学んだ人々にとっても、この息吹――感性は、別角度から知的感覚を刺激するでしょう。

尚、著者のジュリア・ボイドは1992年から1996年まで東京で暮らしたことのある在日英国大使館大使夫人です。1895年に熊本でハンセン病病院を建て、1932年に死ぬまで日本にいた英国人女性、ハンナ・リデルの伝記『ハンナ・リデル―ハンセン病救済に捧げた一生』吉川明希・訳(日本経済新聞社)などの著作もあります。

執筆者プロフィール:園部 哲 Sonobe Satoshi
翻訳者。ロンドン在住。翻訳書にフランク・ラングフィット『上海フリータクシー:野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』、アリエル・バーガー『エリ・ヴィーゼルの教室から: 世界と本と自分の読み方を学ぶ』、フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流:「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』(いずれも白水社)など。朝日新聞日曜版別紙GLOBE連載『世界の書店から』でロンドンを担当。
インスタグラム satoshi_sonobe


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