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田舎こそが未来的な場所なんじゃないだろうか

(旧暦9月8日上弦)

未来は確実に僕たちの手中にあります。変えることができます。スピリチュアルでもなんでもありません。今、何をするかが、未来の僕らを作っていくからです。今の勉強が将来に花開くのですから、目の前の選択は未来を選択することですし、今と未来は不可分の関係にあります。

前回の記事にもそのようなことを書きましたが、今を見るということは、未来を見ることです。未来を見据えて初めて、やっと本当の今を見ることができるのだと思っています。「今」は未来と繋がって初めて「今」となります。

未来的なのは都会か田舎か

一般的には、田舎と聞いて未来を連想する人は少ないのではないでしょうか。都市への人口流出への歯止めは効かず、平均年齢は当たり前のように60歳を超え、自治体の存亡すら危ぶまれている田舎に未来を感じられるわけはないのかもしれません。

新たな商品やサービスが日々参入する都会には、企業や若者が集まっています。流行り廃りのファッションやガジェットは街に新陳代謝をもたらし、人間の細胞同様古いものから新しいものへ次々と入れ替わり、未来に向かって進化しているように見えます。

しかしそれは近視眼的な「今」が変化しているだけのようにも見えます。それよって影響を受ける未来があるには違いありませんが、未来志向であるのとは少し違うように感じます。

ビジネスの世界の性質上、いくら将来を見据えたって、どうしても短期的な業績を無視することはできませんから、「今」と「未来」との繋がりの濃度に自ずと限界があるのかもしれません。

AIをはじめとした未来的なバズワードがいくら世間を席巻したとしても、関連企業としては遠くない将来の利益、すなわち、「未来的でない視野」が多くを占めるのが現実とも言えるでしょう。

それもビジネスの宿命でしょうし、お金が作り続けなければならない現今の社会ではそうならざるを得ないのも無理はありません。

田舎の未来志向

未来都市という言葉があって、未来田舎という言葉が存在しないのは、都市には過去未来の区別はあれど、田舎はいつだって時制の全てを内包しているからなのかもしれません。

過去も現在も未来も同時に流れるのが田舎であり、今が過去と未来との接点を失っていないのが田舎ではないかと僕は考えています。

といってもその田舎が携えているその本質的部分が現在揺らいでいると僕は危惧していまして、それについては後に述べることにします。

さて、田舎が未来的であることができるのは、多かれ少なかれ森との接点があること、つまり林業との関わりが大きいのではないかと考えています。

衰退産業のイメージが強いかもしれませんが、林業そのものはとても未来的です。今、僕が木を植えたとしても、材木として利用価値の出てくるのは50年も先のことですから、その時僕は82歳。生きているかもしれないし、死んでるかもしれない。

吉野の100年杉を例に取ればより顕著で、彼らが植えた木の恵みを享受するのは、次世代以降に委ねられることが自明の理なわけです。

今でも日本の山林は小さな区画が多くの個人によって所有されていることからも分かる通り、それらが現在のように手付かずになり始める以前は、林家に限らず、農家も漁師も、自分の山は自らの手で管理していたはずです。

すなわち、次世代以降に利益が及ぶ事業というものに多くの人が少なからず関わっていたと言えるのではないでしょうか。

言い換えると、未来との接点を常に失うことのない暮らしがそこにあったのだと思うのです。木を植えることで100年後のビジョンが具体性を持って立ち現われてきます。

未来がいつもそこにあることで、森林との関わり以外においても、未来志向を持って取り組まれ得たのではないかと想像します。例えば野菜の収穫は一年単位ですが、土作りとなると一朝一夕にはいきません。

一年という回転する時間と、未来に向けて積み上がっていく真っ直ぐ進む時間の二つを備える必要があり、その一年をより円滑に回すためには未来を見据えて土作りに励まないといけない。そんな考え方が当たり前に生活の各分野にあったのではないかと思うのです。

田舎が本当に時代遅れになる時

その当たり前だった未来志向は、確実に田舎から失われているように見えます。戦後以降、時を経るごとに未来を失っていっている矛盾があるのです。

野菜の話を続けるなれば、除草剤や殺虫剤などのその場その場の対処療法や、土壌のリン酸、カリウム、窒素の配合を化学肥料によって作る、合理的かつ近視眼的な農業が一般化しました。

作物の生育によって欠乏する栄養素は、また次の栽培に向けて科学的に施肥され、その行きつ戻りつが繰り返されています。有機肥料の堆積や、微生物の助けによって年々土壌が進化すると言うような、オーガニック農法のスローで未来的な視野はそこにはありません。

それにつけて農薬の使用は生態系を破壊し、未来に残すどころか、未来から奪うような図式が生まれてしまっています。田舎の人口は減り、若い人はいなくなり、手の行き届かない道路脇の草には除草剤が散布されます。それが無知からくるものであったとしても、環境に負担をかけ、人々の健康を害するなど、後の世代に負担を残す行為が公然と行われています。

かつて未来的であったはずの田舎は失われようとしています。とって代わるのは目先の利益です。とても都会的です。そしてそれは林業の衰退、例えば価値が下落してお荷物となった針葉樹林の放置などのように、森との関係の希薄化が無関係ではないように思えます。

そして今、森林経営管理法によって、意欲が低く管理が行き届いてないとみなされた個人の山は、市町村や林業経営者に委託されることとなりました。そして、50年程度の森林を皆伐して材として利用していくことが奨励されています。もう何年かで、人工林の半分以上がそんな年齢になります。森林の皆伐はその環境保全機能を奪います。ただでさえ大規模災害が頻繁している昨今に。

かつての未来的な林業は失われてしまうのでしょうか。現政権は林業の成長産業化を目指していますが、伐りまくって、売りまくれば、いつだって林業は成長するのです。しかし、それは将来の成長を奪うことで成り立ちます。

森は間伐をしても、残された木々の成長で、再び間伐前の木材比率に追いつきます。それを繰り返すことで、資源資産を守りながら、長い目で森と付き合うことが可能です。50年と言わず100年、そして200年からそれ以上の付き合いができるわけです。次世代、次次世代に繰り越されていくのです。

林業の成長産業化は、一歩間違えると、簡単に衰退化の道を歩みます。成長することを求めずに毎年ブレない経営をして、未来に繋げて行かずして、林業は成り立たないように思えます。目指すは成長より成熟でしょう。

そしてその成熟こそ地球環境と生態系の豊かさへとつながり、1000年先の未来を創っていくことになるのだと思います。

田舎の復活が未来の復活

田舎がいかに未来的であるかを書くにつれ、その未来性が損なわれている現実に我ながら呆然としています。田舎が未来的視野を失うということは、日本全体として目先の利益に目を奪われる傾向になってしまうと危惧します。

未来的であることを都市に求めることにはやはり限界がある。というより、それが都市の役目なのでしょう。近視眼的だからスピード感があるのです。ならばそのバランスを取るためにも田舎がその田舎らしいスローさと未来的視座を取り戻していくほか無いように感じます。

未来を見据えないと、今を見失います。

昨今は気候変動の問題が大きく取り上げられていますが、別に今に始まったことではありません。

最悪のシナリオではなかったとしても、多かれ少なかれ、将来世代にツケを回すことになるのが環境問題です。

今が未来を作る以上、未来を明るいものにするには、今、行動に移す必要があります。問題が明るみになってから過去に戻ることはできません。

未来を楽観するなり軽視する方が、今を気楽に生きれるので楽なことに間違いはないでしょう。しかしその今だけ的な思考が問われています。

今頑張っても、僕らが生きている間は大した成果は出ないかもしれません。しかし、今頑張ることで、これからの世代の負担が減るかもしれません。

自分が死んだ後のことまで考えて木を植えられるかどうか。なのでしょう。だからこそ、田舎の復活、即ち、未来を見据えた長期的な視座の再興が不可欠だと僕は考えています。

そしてその鍵となるのが、生態系の力を借りた持続可能な農林業にあると思います。都心部やその近郊でのそれらの実践なんかももっと広まれば良いなと思いますね。

木を植えましょう。種をまきましょう。


















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