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“原感触” の夏

自転車時代

 原風景ならぬ、“原感触” の話をしようと思う。
 “原感触” というのはこの夏、僕が勝手に考えた言葉で、そこそこ気に入っている。そして今回、記事タイトルとサムネイル画像との相乗効果で『奇跡の人』とかのあの "…WATER!" を連想する人もいるかもしれない(いるか?)けれども、あれとはなんら関係ありません。すみません。

 それは、「電動アシスト付き自転車」によってもたらされたものだった。

    前回の記事で書いたように、毎夕、保育園からの帰りにわが娘コケコを自転車に乗せて、1時間前後の寄り道をしている。妻に夕食の支度に集中してもらうための時間稼ぎである。コケコは後部シートに座らせる。

 たかだか保育園帰りにあちこちへ行きすぎて、寄り道のバリエーションもネタ切れになりつつあった。そんな矢先、コケコがとある公園をいたく気に入り、以来そこに頻繁に行っている。あとは図書館。おはなしコーナーで読み聞かせをしてから帰る日も増えた。休日は休日で、またコケコを乗せて2人で出かけたりする。
 この5カ月間で、ザッと概算しても、300km以上は走ったと思う。電動アシストはこんなにも移動を助けてくれるものか。もはや“ただの自転車”には戻れない身体となってしまった。
 一方で、妻がこの自転車に乗ったのは、これまでにたしか4回ぐらい(距離にして5~6kmぐらい)だろうか。ほぼ完全に僕専用機と化しているのだ。

 大型車も通る広い道路は、車道の端っこに申し訳程度に自転車用のレーンが指定されているばかりだ。歩道のようにガードレールで守られているわけでもなく、ここを行くのはなんだかけっこう危なっかしいし、怖い。
 背後のコケコが無事であることを確認したくて、僕は何度も振り返る。そして、これまた前回書いたように、何度も後ろに向かって話しかける。

”ペロッ” ときて “なまっ”

 ところがふと、コケコが無言になることがある。もしかして眠いのか? と思っていると、不意にそれは来る。
    まず、僕のシャツの裾が、後ろからペロッとまくり上げられる。仕事帰りとはいえ僕は(多くのコピーライターと同じように)カジュアルな格好であり、春から夏にかけては、だいたいTシャツとかポロシャツを着ているのだが、その裾をペロッとやるのは、もちろんコケコの手だ。

 そして、あらわになった背中の素肌の、尾てい骨付近、パンツの腰のゴムよりやや上のあたりを、その手が触れてくる。弱く、小さく、撫でてくる。
 なんだか異様な生温かさ、と書こうとしたが、実際きのうもコケコの手に触れられて感じたのは、それは意外と「熱い」ってことだ。汗ばむ背中に、汗ばむ手。体温が2倍になったように熱いのだった。

 大人の手であれば、指や掌の「骨格」を感じるところだろうが、2歳の手にそういう硬質な感じは全然なくて、かといって乳児のときほどプ二プ二でもない。
 ふわっ、と。やわっ、と。いや、ちがうな、その温度や湿度も込みで表現しようとすると、「ぬまっ」あるいは「なまっ」という感じ。
 その一瞬、いつもドキッとする。感覚的な表現になるけど、「とろっと血が流れ込んでくる」ようなナマナマしさがある。

 でもドキッとした直後になんだか安心する、というか、父の背中を撫でてコケコが安心してるのかなと思われ、それがこちらの安心に置き換わる。安心が、こう、同期する。
 ふだんよく喋るコケコが、それをやっているあいだはきまって沈黙している。

 たとえば抱き上げるとか、抱きしめるとか、撫でる、頬を摺り寄せる、頬に吸い付く、頬をアッチョンブリケする、頬をしーうーのあらまんちゅする、右頬を打たれたら左頬を差し出す、などといったことは毎日やっているんだけど、そういうふうに対面して行うスキンシップ然としたスキンシップ以上に、この“見えないコケコの手”には何かハッとさせられるものがある。  

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感触という孤独

 ずーっとあとになってこの“自転車時代”を思い出すとき、自転車から見たいくつもの風景よりも(それはそれで懐かしかろうが)、この感触をこそ真っ先に思い出して、「ああ」と思いそうな気が僕はしている。自転車の前と後ろに座ることではじめて得たものが、ここにある。

 そしてそう、これこそが、“原感触”だ。
    コケコの、とは言わない。父親になった僕の、である。というのも2歳の記憶をあてにはできないから(物心つく前でも感触は身体で憶えているものですよ、と嬉しいことを言ってくれる人もいる。でもそこに期待しすぎないくらいでいたい)。
 原風景、原体験のように原ホニャララと言えるものを38歳にして新たに手に入れた僕は、人生の2周目の始まりに居るようだ。

 風景ならかろうじて写真や映像に記録できる部分もありそうだが、触覚は、残念なことに、まず保存できない。文章で疑似的に覚え書くだけである(38歳には言葉がある)。
 ペロッときて、なまっ。ペロッときて、なまっ。
 ああ、所詮は擬態語。なんて間抜けなんだろう。

 この感触をきっと、妻は知らない。先述したように、妻はこの自転車にほとんど乗らないし、シャツの下がすぐ素肌ということもまずないからだ。
 それを思い出すことができるのは、なんなら世界で僕ひとりだけ。そこにすこしの優越感もあれば、すこしの残念さもあるのだ。寂しくて、愛しい。感触なんて孤独なものだ、と書いて気づかされるのは、妻にしてみれば「お腹のなかに赤ちゃんがいた」感覚、感触、というのはさぞかし(もっとずっと強い度合で)そうなんだろうな、ってことだった。

 余談ながら、僕たちの電動アシスト付き自転車はYAMAHA製で、商品名を「Babby(バビー)」という。あくまでも僕の推測だが、これは「Baby(赤ちゃん)」と「Buddy(相棒)」を掛け合わせたネーミングなんじゃないか?
 2人でこれに乗るとき、なるほどたしかに2人はバディだ。いっそ、電動アシスト付き自転車でやるロードムービーがあったら観てみたい。環七あたりを飛ばして行く感じでお願いしたい。そしてコピーライターが最後に商品名を登場させといてアレですが、別にYAMAHAから金はもらっていない。

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