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言ってないことがあるとするなら

《我与地坛・记忆与印象2》


要是有些事我没
,地,你别以是我忘了,我什么也没忘,但是有些事只适合收藏。不能,不能想,却又不能忘。它不能言,它无法言,一旦言就不再是它了。它是一片朦的温馨与寂寥,是一片成熟的希望与望,它地只有两:心于坟墓。比如说邮票,有些是用于寄信的,有些仅仅了收藏。

何か言ってないことがあるとするなら、地壇、忘れたわけじゃないんだ。私は何も忘れちゃいない、しかし、コレクションしか向かない物事というのもある。言ってはいけない、想ってはいけない、けれど忘れることもできないこと。それらは言語に変えてはならない、それらは言語に変えられない、言語に変えてしまえばそれではなくなる。それらはおぼろげな温もりと寂寥、熟れた希望と絶望。それらの領地は二つのみ:心と墓場。例えば切手には、手紙を送るためのものと、コレクションのためのものがある。


于有一天,有人听懂了我:“里面像似有个情故事,干嘛不写下去?”

ある日、ついにこの言葉を理解した人が私にこう尋ねた。「このなかには愛にまつわる物語があるようですが、どうして書き続けなかったんですか?」


就是那个情的全部。”

「これがその愛にまつわるすべてだ」


在那座弃的古园里你去听吧,到都是情故事。到那座荒的祭上你去想吧,把自古而今的情故事都放到那儿去,就是一个情的全部。

あの廃り、古びれた園で耳をすまして聴いてごらん、どこもかしこも愛の物語で満ち溢れている。荒れ果てた祭壇にのぼって考えてごらん、古今東西の愛にまつわる何もかもをそこに持って行って、それが愛のすべてだ。


情故事,好像是个悲?”

「このラブストーリーは悲劇のようですが?」


“你的是婚姻,情没有悲。”

「あなたが言っているのは婚姻のことだ、愛に悲劇なんてない。」


对爱者而言,情怎么会是悲春天而言,秋天是它的悲剧吗

愛する人にとって、愛が悲劇なわけあるだろうか?春にとって、秋はそれの悲劇だろうか?


尾是什么?”

「結末はなんでしょう?」


“等待。”

「待つことだ。」


“之后呢?”

「それから?」


“没有之后。”

「それからなどない。」


“或者,等待的果呢?”

「言い換えると、待つことの結果は?」


“等待就是果。”

「待つことが結果だ。」


“那,不是悲剧吗?”

「それは悲劇ではないんですか?」


“不,是秋天。”

「いいや、秋だ。」

(※個人的に訳してみたものです)


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