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多度津町議会選挙関連:立場の違いで終了にならない未来へ向けた取り組みの可能性とは?

こんにちは、氏家のりおです。

ご無沙汰しております。2023年の多度津町議会選挙に出馬することになりましたが、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。

所事繁多にてなかなかnoteも更新できないのですが、こちらでも日々、僕が多度津町で考えていることを紹介できればと考えています。
*なお同文章は、公式ホームページブログにも掲載しております。

ということで。

The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing. Edmund Burke.
悪の勝利のために必要なことは、善人が何もしないことだけである。

最近少しだけ考えていることを紹介したいと思います。

政治って立場になりますので、やはり考え方の衝突になることがしばしばです。例えば、元首相を国葬にするのかどうかなんかもそうですよね。

僕が一番大切にしている基準は、研究者という来歴もある通り、それが科学的に裏付けがあるのかどうかということに横着します。政治という狭義でアプローチすれば、憲法に即した議論なのかということも大事になりますよね。

そこから国葬にすべきがどうかという議論が始まるのですが、どちらかといえばキーワードが先行して殴り合いになっちゃい、最初からわかっていたような落ち着きどころへと利益誘導されてしまうというのがそのほとんどじゃないでしょうか。

そういうキーワードを先行するにあたっては、もちろん、合理的な説得力があるのかどうかは十分に大切ですし、僕も立場上、そこを重視しまして、判断します。

ただ、実際の状況は、合理性による是々非々の判断というよりも、「お前らバカか」という議論や態度が先行し、混迷を深めているなあというのが正直な感想です。

端的にいうと、僕は国葬に反対ですが、反対であるからこそ、賛成の立場のひとに「これこれこういう理由だから」と言っても耳に入らないのも現実であることを理解しています。しかし、だからと言って黙る必要もないのですが、それでも「お前らバカか」は付け加えないように警戒しています。なぜなら、そこで議論が終了するからです。

先に「政治講座」で紹介した通り、メロン好きな人間をいちご好きにすることもできないし、イチゴ好きな人をというのもしかりというのが人間世界の現在だからです。
*イチゴとメロンの話はこちら↓

しかし、例えば国葬の是非にしても、立場が違うから「あ、そうですか」で終了させて双方が背を向け合え続けるのではなく、その次のオルタナティブをどのように積み上げていくのかが大切なんじゃないのかなあとぼんやりと考えています。

メロン好きな人も、イチゴ好きな人も、お互いの立場は立場で趣向だと思います。それが人間そのものの廃棄へと傾かない条件のなかで、どのように未来を共に開拓していくことができるのかにリソースを注ぐべきなのではないかと言い換えてもいいかもしれません。
尊敬するインド出身の女性哲学者にガヤトリ・チャクラボルティ・スピヴァクという人物がいます。

彼女は、インドで貧困に喘ぐ女性をエンパワメントしていく事業(教育)に関わり続けていますが、そうした貧困女性を生み出していく原因となっている政治組織やその力を「利用」してまでも、貧困女性が自立していくことのできる教育システムを構築しているといいます。こうした柔軟なアプローチを積み重ねていくことが大事なのじゃないのかね?

なんて最近は、考えています。

冒頭では、18世紀イギリスの保守政治家エドマンド・バークの言葉を引用しましたが、バークの言っていることは、保守というよりも革新として響く、間違いのない言葉なのですが、その通りにならないように、日々、自分自身を人間として鍛え直すなかで、人々と協同していくことが大切なのじゃないのかななんてね。



氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。