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ひとりになりたい~ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』12月前半の読書記録

先月、ミア・カンキマキ著の『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を読み終わった。
その本の中で、著者がヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』の一節からインスピレーションを得たことが書かれていたのが印象的だった。
その時からウルフのことが気になったので、今回初めて読むことにした。

1928年「女性と小説 フィクション」についてオックスフォードの女子カレッジで行われた、ウルフの二度の講演をもとに書かれたエッセイ(講演録?)である。

出版は翌年の1929年。
講演をもとにしたエッセイとは言うものの、堅苦しくなく、読みやすかった。
架空の女性であるメアリー・ビートンを語り手に据えて、物語のように展開していくので、ウルフの講演録…というよりは、短編小説のようで親しみやすいと感じた。

女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない(平凡社ライブラリー「自分ひとりの部屋」10ページより引用)」という言葉が、当時どんなに実現しにくいことだっただろうかと思う。

二度の世界大戦のはざまで、男女平等の参政権がイギリスで認められたのは1928年のことだそうだ。女性の社会的な地位が高いとはいえそうもない。
女性の役割、貧困、生活、仕事、創作活動…などに触れている『自分ひとりの部屋』は、フェミニズム批評の古典としても読み継がれているようだ。

みなさんには、何としてでもお金を手に入れてほしいとわたしは願っています。そのお金で旅行をしたり、余暇を過ごしたり、世界の未来ないし過去に思いを馳せたり、本を読んで夢想したり、街角をぶらついたり、思索の糸を流れに深く垂らしてみてほしいのです。

平凡社ライブラリー『自分ひとりの部屋』第六章188ページより引用

私は、ウルフの書く文章に興味があり、その美しい世界をひとりで漂ってみたかった。
もうひとさじ理由を加えるなら、個人的に些細なことだが悩んでいることがあって、この本を手に取った。これ以降は本の感想ではなく、私の個人的なつぶやきとなる。

私は、スマホで文章を書くことがどうしても出来ない。メモくらいは取れても、noteの画面に打ち込むことが出来ない。文章が思いつかない。ゆえに更新頻度が遅くなり、書きたいときは「自分ひとりの部屋」にこもり、家族が立てる音をほぼ無視して書いている。

そして、だいたい書いたあとは感情を放出しきっているので、すごく疲れていてお腹が減る。
余談だがnoteを始めてから体重が1キロ減った(食生活に気を付けているのでnoteは関係ないかもしれない…)。

「書くこと、読むこと」を楽しみたいと思ってnoteを始めたのだが、同時に疲れてしまうことも、この数か月で、わかった。

noteの世界は読んでも読んでも、面白い書き手さん、豊かな書き手さん、文章の癖がなく読みやすい書き手さんが、どんどん現れて読むのがやめられなくなる時があった。嬉しいこともあれば、難しく思うこともあった。それで通知はすべてオフにすることにした。自分の書いた記事の反応が気になってしまうので、月額料金はかかるが予約投稿機能を活用し、自分でも記事がいつあがるのかを忘れるようにした。寝ている時はスマホの電源は切っているし、予約投稿時間はだいたい朝。一番自分が忙しい時間に設定した。

それでも本を読んだあとに訪れる感情を鎮めるためにnoteを書くこともあったし、自分の「表現したい」という思いを止めらない時があった。

文章で褒められたい、と思っている。
そして、その気持ちに薪をくべる為に、より適切な場所があるだろうと思い、noteではなく公募のほうでその気持ちを燃やすことにした。

フォロワー数、スキ数が見えない世界のほうが良いと思ったから。
noteを読んでいると、すでに文章を書くことで成功しているひとがちらほら見えて、自分は何をやっているんだろう、もっと生産性のある仕事に注力したほうがいいのではないかと思うこともあって、その音が煩わしかった。
今まで創作活動をしてこなかったし、インスタもTwitterも写真も苦手なので承認欲求…とは無縁の私だと思っていたが、たまに自室でPCをたたいていると、そいつと目が合うことがあった。しょうがない…。

書くことをもっと学びたいと思って、講座に通うことも考えたが、結局は申し込まなかった。通学にかかる時間が大きいことと(会場まで1時間半かかる)、なんとなく「通っている」という事実で満足しそうだな…と思ったのでやめにした。リアルな生活で「文章を書いている人」に会うことがないので、そういった人に会えるのは楽しそうだなと思ったけど、それは今じゃなくてもいいかなと思った。

自分ひとりの部屋でないと書けないことに変わりはなさそうだった。
私自身、「自分で自分が納得できる文章が書ければそれでいいや」と思っているタイプだと思っていたし、そのつもりで書いたのが初めて投稿した「歌ったり踊ったりしていたい」というエッセイだったのだが、どうもそうではないらしいということに最近気づいた。エッセイを書く時、感情を見つめることや、過去の自分に思いを巡らすことに、必要だとは思うけど苦しさがついてくる(気がする)。

なので、な~んにも考えずに、頭からっぽにしてとりあえず文章だけ打ちたいな~と思って始めたのが【思い出し旅行記】47分の…シリーズ(?)である。本当に何も考えていない。ただ文字を脈略なく打っているだけ。
発散のさせ方がそれしか思いつかなかった。そして47分の47になる日は、かなり遠いと思う。(なぜなら私は飛行機があまり好きではないから。)けれど、日本各地をうろうろしたり、ウルフが言うように街角をぶらぶらして、思索の糸を流れに垂らして、新たな知見を得たいと思う気持ちは変わらずにずっと持ち続けている。

別に私は文筆家ではないし、文章を書いたところでお金が発生することはない。しかし、とにかくお金が発生する労働をしなくては…とあせっている(もちろん家事も立派な労働ではあるけれど)。

なぜか今年に入ってから不眠症気味で、過去の日記にも軽く書いているけど、睡眠に入るのが難しい日が多くて悩んでいる。ぐっすり寝たい。
文章を書いたあとは眠れなくなったりドキドキしたりして、より難しくなってしまうときがある。楽しいことを楽しめない自分のことが疎ましく、そして自分の将来が不安で、よりぐずぐずとなってしまう。
ひとたび眠れなくなると、眠れないターンがしばらく続くのが怖く、どうしてよいのかわからないし、この調子で社会に出て働けるのか…という気持ちもある。

書いていて思い出したが、昔、眠くて眠くて仕方のない時期があった。高校生の時だった。とある事情から、家庭が経済的に苦しくなった。
長子である私はもろにその影響を受けた(余談ではあるが私には弟妹が多い)。高校卒業直前に、やっぱりここではやってられんわ、と思い家を出た。ふるさとには「自分ひとりの部屋」は、もちろんなかった。

パソコンに向かって文章を更新するとき以外、noteをログアウトすることにしている。
そして、この記事に関してはコメント欄を閉じさせてください。

なんとなくひとりになりたくて、ひとりで書きとめていたかった。


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