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誰しもきっと抱えている気持ち

こうしたnoteというプラットフォームで、昨年の下半期から今年にかけて文章を書いてきた。段々と気づいてきたことがある。

それは感じていることや思っていること、考えていることの何分の一でも言葉にするのは難しいということ。言葉だけは自分の内から垂れ流されるけれど、そのどれもがしっかりと伝えられるような形を帯びていないこと。


世の中の、あるいは身の回りの役に立つ情報ならば、今なら探せばいくらでも出てくる。情報が足りないと言っている人はもはやこの世にいないのではないか。もしいたら懸命に探していないか、あるいは情報に見合った対価を支払っていないということだろう。

僕は世の中の役に立つ情報をここで発信しようとは思わない。優れた情報をもってして、読み手に寄り添って伝えてくれる方なら既にたくさんいらっしゃる。


僕はこの告白の場を、自分の普通日常を書き続けられたらいいと思っている。僕の普通は誰かにとって普通ではなく、日常ではない。かたや、誰かの普通と日常とに重なるところもあるだろう。たとえどこにでもあるような話であっても、してみたいと思うのだ。

何かを作る経験を今まであまり経てこなかった。音楽も作らないし、絵も描かないし、サービスを考えることもしてこなかった。だが今こうして文章を生み出している。誰にでも書くことのできる文章でありながら、言葉を紡いでいるのは間違いなく僕である。そのことがたまらなく嬉しい。日記とは違う、誰かに読んでもらう形式で書くということがこれほどまでに自分の心を躍らせるとは思ってもみなかった。


書くということが段々と楽しくなっていく一方で、思っていることの何分の一も、いやもしくは一ミリも伝えられていないような気がしてくる。胸の内には、たくさん言いたいことが山ほどあるのに。言葉にすると、沸騰していく水のように蒸発して、もうそこには伝えたかった形そのものは残っていない。

もどかしい。もどかしく。もどかしい。

高校生の時分、友達が「俺、今めっちゃもどかしい気持ちや。」と僕に言ったとき、なぜだかニヤニヤと自分でも気持ち悪い笑い方をしてしまったのを覚えている。

そんないつ使うのかよく分からないような言葉を今使おう。


大変もどかしい気持ちである。もどかしさにはいつもどこか無力感がつきまとっている。自分ひとりではどうすることもできないような。思い返せば、あのときも、このときも、そのときも、そしてあいも変わらず今も。伝えたいことは一言では到底言い表すことができずに、僕は一番楽な「沈黙」を選んでしまっていた。

だがここでは長々と自分の好きなように話すことができる。あのときと、このときと、そのときと、今、そしてこれからの思い。

誰しもきっと抱えている。たった一言では言い表すことのできない感情。それを探し求めて、皆、誰かと、あるいはひとりで作品を、情報を、サービスを作り続けているのではないかなんて今は思う。

もどかしさを抱えながら、一欠片でも多く、僕の普通と日常と感情とを恥ずかしげもなく綴り続けたい。

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