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原動力は“自分が自分らしさを体現すること”

明けましておめでとうございます。
国内でも海外でも雲行きの怪しい年明けとなっており、心がざわざわとしながら生きている今日この頃です。
そんななかでも、自分でいられるように、表題について書いてみました。
今年も気ままに綴っていきます。どうぞよろしくお願いいたします。


2024年となって改めて自分がどう生きていきたいかを考えたとき、私の過去の澱みと共に、光も浮かび上がってきた。

澱みは「人に嫌われたくない。求められたい」という強迫観念のようなものが生まれた体験。能力や容姿で自分の価値をマイナスに判断されたこと。
対して光は、努力によって自分の能力や人間性が花開いて活躍できたり、他者から評価されたこと。

去年は澱みを紐解くことに時間を割き、それらから来る生きづらさのほとんどは自分のせいではなく“他人由来のもの”だと理解することができた。
反面、光については、それが他者によって照らされる機会が得られたにしても、自分が輝こうとしたにしても、どちらも自分らしさや能力を発揮できた証なのだと思う。

澱みについては、さまざまな人生経験の中でまた明るみになり、節目に都度都度向き合うことになると思う。
今回のnoteでは今までになく、光にフォーカスを当てて書いていきたいと思う。
というのも、今年、そして今後の私の人生の目標の一つとして
“自分が自分らしさを表現する芸術となり、輝きたい
と思うようになったからだ。

昨年さまざまな人と話す中で、気づいたことがあった。
それは、私という人間のこだわりや知的感性・美的感性・趣味嗜好・幸せに感じること、要するに“私らしさ”は唯一無二だということ。
当たり前のことではあるのだが、他者との境界線が薄かったり他人軸で生きてきた私には、自分の個性に疑念があったようだ。

まだまだ、他者の意見を無条件に受け入れたり、自分がどうしたいかを考えるプロセスが抜け落ちることも多い。
それでも、私がべき思考に囚われていると気づいた去年、自分を表現していこうと意識することで個性が少しずつ理解できてきた。

音楽や仏像といった芸術に心揺さぶられること、自然が好きなこと、ノンバーバル・バーバルコミュニケーションが好きなこと、新たな場所や学びが好きで好奇心旺盛なところ、ひとの良さや素敵なことに気づいて相手に伝えることが好きなこと。

ひとつひとつはいろんな人が持ち得る特徴かもしれないが、それらがたくさんいろんな色で混ざり合うことで個性になる。
その芸術の美しさは何にも変えられないし、自分にしか描けない。

私の光は澱みと合わさって芸術となる。
私の今までは、澱みばかりが主張する絵だった気がする。
光があっても常に眼前には雨雲がもくもくと漂っていて、外にその光はうっすらとしか届かない。
光が直接周囲に届くとき。それは私が自然体で自分らしくいられるとき。
私が安全だと、いて楽しいと思える空間で、ひとと関わっているときだと思う。

それは、他者が「ここが光源だよ」と教えてくれた場所だけではない。
自分から、自分が輝ける場所を見つけること。
自分のセンスが発揮され、能力に過度に、ほとんど頼らずに、人間性が輝く場所。
そんなところを、私は探している気がする。

今年は、そんな光を探して生きていこうと思う。
それは、自分が幸せだと感じることを辿って、理解すること。
自分を疑わずに、このままでいいと思わせてくれる環境を見つけること。
そして、今まで知らなかった芸術に気づかせてくれる環境を探すこと。
それらに飛び込んで、かつ力を抜いて生きること。

光といっても、私は常に北極星のような輝きを求めているわけではない。
光と澱みが合わさった芸術は、常に形を変えるだろう。
ときにそれはきらきらとしているかもしれないし、寺社仏閣のように落ち着いたものかもしれない。木々のようにゆらゆらと揺れ、艶々とした葉が踊っているかもしれない。

自分自身が主体となって芸術を創っていくこと、そしてそれに光を当てていくこと。
日の目を見せていくこと。
そして、自分の芸術をしなやかに変化させながらも、根は張り続けること。

全ての、より多くの他者に認められなくていい。
芸術は、人は能力で評価されるものではないのだから。
だが、その芸術が自分が愛せるものであること。そのうえで、誰か、ほんの少しの人に「綺麗だな」とポジティブなエネルギーを生むこと。

それが、私が今望むこと、というか、自分の原動力だ。


今回もお読みくださりありがとうございます。
そしてヘッダーにはハイキングの際に見た景色の写真を使ってみました。
四季で色を変える山々をみるのが大好きです。