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J・M・クッツェー『ポーランドの人』《砂に埋めた書架から》67冊目

 今年八十三歳になったJ・M・クッツェーの最新作『ポーランドの人』は、恋愛小説である。

 クッツェーは南アフリカ出身の小説家で、批評家、翻訳家、数学者、言語学者など多才な顔を持っているが、やはり、小説家としての業績は華々しくて、代表的なものではフランスのフェミナ賞の外国小説部門を受賞したほか、イギリスの権威ある文学賞として知られているブッカー賞を二度受賞し、そのあと、二〇〇三年にはノーベル賞を受賞している。日本語に翻訳された本もたくさん出版されているようなので、名前をご存知の方も多いのではないだろうか。

 個人的な話になるが、私は書店に行くと海外小説の新刊をチェックしたり、海外文庫の棚に寄りついてよく背表紙を眺めたりするのだが、河出文庫の棚にクッツェーの『鉄の時代』という本があって、たびたび手に取っていた。けれども、アパルトヘイトがあったつらい時代の話だし、テーマも重そうで、なかなか購入までの踏ん切りがつかなかった。

 しかし、先月になるが、noteで『ポーランドの人』というクッツェーの新作を読まれた方の記事に出会い、すぐにでもその本を手に入れて自分も読みたい! と思ってしまったのである。単行本は今年の六月には刊行されていた。近くの本屋に行ってみたが見つからず、隣町でようやく実物を見つけることができた。自分にとって、初のクッツェーである。

 八十を過ぎた男性作家の描く「恋愛小説」とはどんなものだろうか。仮にこの小説が、老作家が若い時分の華やかな恋愛を回想する内容だったら、それはそれで面白いかも知れないが、私が関心を寄せることはなかったと思う。だが、『ポーランドの人』は違っていた。この小説は、七十二歳の男性ピアニストが、異国で出逢った四十八歳の女性に一目惚れしてしまう話である。いや、小説はその女性の視点で進行するので、こう言い換えるべきだろう。スペインのバルセロナにある音楽サークルの委員をしている四十八歳の女性が、招聘したポーランド人の七十二歳になるピアニストに突然求愛されてしまう話である。しかも、女性とピアニストはその日が初対面だった。サークルが主催するピアノコンサートにショパン弾きのこのピアニストを呼ぼうと決めたのは別の委員だし、コンサートの当日に演奏を終えたピアニストを晩餐会で接待する役割も、本来なら彼女ではなかった。彼女は病気に罹って来られなくなった仲間の、いわばピンチヒッターとして世話役を買って出ただけなのだ。

 その晩餐会も、会話が弾んだとは言い難い。女性はポーランド語が話せないし、男性もスペイン語が話せない。そこで女性は得意な英語を使い、コミュニケーションをとろうとするが、ピアニストはぎこちない言い回しの英語しかできず、本当に言いたいことはうまく伝えられないようだった。レストランを出て、タクシーでピアニストをホテルまで送り、そこで彼女の役目は終わる。一緒にいた時間は決して長いものではない。だが、一週間後に彼女宛に小包が届き、そこには彼の演奏が収録されたCDと英語で書かれたメモ。さらにその数ヶ月後、彼女に会いたいと願うメールがあのピアニストから届くのである。しかも、今はポーランドではなく、ジローナ(バルセロナと同じカタルーニャ地方にあるスペインの都市)にある音楽院でピアノを教えているというのだ。「ここにいるのは貴女のためです。貴女が忘れられません」とメールに書いてよこす彼。一度しか会っていない男性からの突然の好意に、女性は戸惑う。彼女は既婚女性で銀行家の夫と二人の息子がいるのだ。今の安定した生活に不満はない。しかし、その一方で、自分のどういうところに好意を持ったのか、五十に手が届きそうな自分のどこに魅力を感じたのか、そして自分に何を望んでいるのか、それを本人に直接会って確かめたいという好奇心が、彼女の中で大きくなっていくのである……。

 こんな風に、この『ポーランドの人』という小説は、突然求愛された女性の側にフォーカスを置いて、彼女の内面に起こる心の推移を、細かく丹念に拾い上げながら進行する物語なのである。

「ポーランドの人」こと男性ピアニストの名前はヴィトルト。そして、求愛された女性の名前はベアトリス。

 ベアトリスは裕福な家庭に生まれ、高い教育を受けてきた教養人であり、本もよく読んでいる頭のいい女性として描かれている。私がこの小説の読みどころのひとつとして挙げたいのは、このベアトリスの内心で起きている正確な自己評価と、相対する人物に向けての高い分析能力である。人は、目の前にいる相手が、どういう人間性を有しているかを判断するとき、相手のことを観察して推量する。それが異性、さらには恋愛対象となるような人物であれば、なおさらその観察と分析は鋭いものになるわけだが、通常は、そのほとんどが無意識の中で処理され、いちいち言語化することなく感覚で判断される。だが、この小説の中でベアトリスは、その内心の分析の過程を、丁寧に言語化して読者に伝えてくれるのである。私はこれが面白かった。女性がヴィトルトのようなタイプの男性と接したとき、心の中ではこんな風に思っているのか、という驚きの発見があったり、その深い分析に首肯したり、自分が言葉にできなかった感情を見事な表現で教えてもらえたような気持ちになったりした。ベアトリスの人間観察と分析の鋭さは、それだけ日頃から自己を冷静に見つめていることの証左だろう。だからこそ、思いもよらなかったヴィトルトからの求愛に、好奇心が湧いたのではないだろうか。こういった女性の気持ちや繊細な心の動きを、すべて八十を過ぎたクッツェーが書いているのだと思うと、私は作家というものに心から尊崇の念を抱いてしまう。

 若者同士の恋愛と違い、ある程度の年齢に達した男女は、これまでに成立している人間関係に縛られており、とりわけ恋愛関係を結ぶことにおいては慎重にならざるを得ず、お互いの年齢を鑑みれば躊躇する心が生まれるのも当たり前であろう。この小説に登場する男女は、七十二歳と四十八歳であり、片方が求愛したところで、相手は既婚者なのだからその返事は決まっているようなものだ。ベアトリスはヴィトルトにノーの姿勢を示すが、この小説の醍醐味は、若者同士の恋愛であれば起こりえないはずの「問題だらけの小道」というものに、ベアトリス自らが進んでハマっていくところにある。その年齢だからこそ、確認したいことがあるというのは私もわかる気がするし、そこに自分を引き入れた「好奇心」を抑えることは、賢いベアトリスにはできなかったのだと思う。

 全部で六章からなるこの小説は、内容的に、第一章から第三章までの前半と、第四章から第六章までの後半という風に、二つに分けることが可能な構成になっている。ベアトリスとヴィトルトの間には、終始、言葉の障壁というものが立ちはだかっていて、本当に伝えたいことのやりとりを、この二人はできない。前半で機能しているこの障壁は、後半の展開においても効果的に機能する。本作のテーマが、母語や第一言語が異なる相手との、感情伝達のもどかしさ、意思疎通の難しさ、という点にあるのは明白だろう。そして、その困難に直面する主人公の、後半における奮闘も、この小説のもうひとつの読みどころなのである。

 風変わりなラブコメディとも言えるこの作品は、クッツェーとしては異色なのかも知れない。けれども、非常に読みやすい小説だった。実際に『ポーランドの人』の本を開いてみるとわかるのだが、文頭にナンバーが振られてあったり、段落ごとに一行空けが設けられていたりと、書式に面白い工夫が施されているのだ。そのため、厚い本のように見えるかも知れないが、読んだ感触では、中編小説ほどのボリュームのように感じた。最後の一行にもときめかされたし、読後の印象がすごく良かった。

 これなら、次はクッツェーの『鉄の時代』や『恥辱』といった作品にも取りかかれそうな気がしている。

2023/12/11


書籍 『ポーランドの人』J・M・クッツェー くぼたのぞみ/訳 白水社

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 今回の書評(感想文)は新作ですので、いつもの【追記】はありません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。





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