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桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』《砂に埋めた書架から》62冊目

 先日、ある読書ブロガーの方が「大好きな鬱小説」というタグのもとに集まった5000ツイートを集計して、ランキングを発表したことが話題になっていた。

 読むと鬱になる小説、ではなくて、読むと鬱な気分に陥るが、大好きな小説——という意味だと私は受け取り、この微妙なニュアンスを心に留めながら、たいへん興味深くそのブロガーの方の記事とランキングを拝見したのである。

 その中でもっとも多くのTwitterユーザーによって名前をあげられていた作品が、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という小説だった。桜庭一樹は2008年に『私の男』で第138回直木賞を受賞していることから名前は存じ上げていたが、作品は手にしたことがなかった。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という本については、不覚にも私はタイトルさえ知らなかったのである。

 俄然、興味が湧いて本を購入してしまった。その本は角川文庫で、解説は辻原登が担当していた。辻原氏は芥川賞作家である。実は十年前に私は辻原氏の講演を実際に拝聴したことがあり、個人的に親しみを感じていた。そのこともあって、本編を読む前から私の期待は膨らんでいったのである。

 この小説は、第一章の前に置かれた「新聞記事より抜粋」から始まる。わずか五行の短いものだが、非常にショッキングな内容で、重要な登場人物の死を、読者はここで知らされることになる。言うなれば、この作品は幕開けから重い気分を引き摺って読むことが運命づけられているのであり、この死を終結点として、その一ヶ月前の起点から全体の物語が進行する構成になっているのだ。

「鬱小説」というワードがインプットされた状態からこの本を手に取っている私としては、その「鬱」の実相を早くもつかんだ気になった。やがて訪れる重要な登場人物の死。その暗黒の結果を予め知った上で読むのだから、これは辛い。だが、作者は読みやすい文章と卓抜な言葉選びのセンスで、ときにユーモアを交えながら、十三歳になる二人の少女たちの出会いから書き起こし、その滑らかな筆致の推進力で先へ先へと物語を読ませてしまうのである。

 ところで、読み始めて間もなく、私はちょっとしたことに気付いた。まず、この作品は語り手が中学に通う女子生徒で、「あたし」という一人称の視点が採用されていること。そして、語り手自身が自己紹介をする箇所が本文の途中に設けられていることだ。

 あたしの名は、山田なぎさという。
 十三歳。中二だ。
 中肉中背で、髪は長い。とくに特徴をあげるのがむずかしい。

桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』角川文庫 p17より.


 これは小説として相当に親切である。読者にストレスを与えることなく、直截的に語り手自身が何者であるかを説明している。この手法は読者の年齢層が若い読み物に多くみられるものだ。ヤングアダルトやジュニア向けの小説には、自己紹介が冒頭から始まる作品は決して珍しくない。

 私はふと思い浮かんだことがあった。急いで文庫本の最終にある奥付のページをめくってみた。すると奥付の前ページに、この作品がもともとは「富士見ミステリー文庫」として刊行されたものである旨が記載されてあったのだ。

 思った通りだった。実を言うと、私は本作を読み始めたときから、何となく自分が昔読んでいた集英社のコバルトシリーズのような少女小説の雰囲気を感じていたのだ。富士見ミステリー文庫という名は書店のライトノベルが並べられたコーナーで見かけた覚えがある。つまり『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は、もともとはライトノベルとして刊行された小説だったのだ。

 昨今、ライトノベルは書店の文庫の棚を席巻する勢いで多くの若い読者を獲得しているが、恥ずかしながら、私はこれまでライトノベルを読んだことがなかった。コバルト文庫や朝日ソノラマ文庫なら読んだことがあるので、それに近いイメージを勝手に抱いているのだが、この認識が正しいのかも実はわかっていない。

 ただ、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んでみて思ったのは、若年層を対象にしたスタイルで書かれてはいるが、物語の内容としては些かハードであり、救いのなさでは大人向けの小説にも比肩し得るものであるということだった。従来のライトノベルの基準から、もしかすると逸脱している作品なのかも知れないと、そんな風に思うようになったのである。

 この小説の中には、三つの時間が描かれている。新聞記事で示された、最悪の結果がすでに起こっている時間。山田なぎさと転校生の海野藻屑うみのもくずの二人が出会い、離反と和合を繰り返しながら次第に関係が深くなっていく時間。そして、山田なぎさが不吉な予感に囚われて、ある人物と山を上りながら現場へ向かう時間、である。

 この三つの時間を、小説全体の要所に配置して、読者の緊張感を高めていく効果は抜群である。さらにこの凝った構成は、本文の中で述べられている「サイコロジカル・ミスディレクション」と呼応している。

 海野藻屑は、ぼくはこの家の中から消えます、泡になって、と宣言をして、山田なぎさと同級生の花名島かなじまの二人がいる前で、本当に密室になっている自宅の白い家の中から消えてしまう。のちに、その話を妹の山田なぎさから聞いた兄の友彦は、それはサイコロジカル・ミスディレクション(心理的トリック)だと看破する。

「……心理的な盲点をつくトリック。手品でよく使われる手だ。つまりね、手品の種というものは、ここですごいことをやりますよ、と主張するゼロ地点でトリックを使うわけではないんだ。ゼロ地点ではすでにトリックは終了している。……」

同 p102より.


 いみじくも、友彦がトリックを解説したように、この小説には、冒頭から“切なさ”が仕掛けられている。読者は凄惨な結果に至るまでの経緯を見つめる過程で、少女たちの絶望を知り、残酷な愛に胸を痛め、未来への不安に押し潰されながら、設定されたゼロ地点へと向かっていくのである。

 どんなカテゴリーの小説であっても、作者がそこに込めた思いに、軽重の差はない。粗忽な私は、直木賞作家が書いて、芥川賞作家が解説を寄せて、角川文庫から刊行されている本であることから、一般小説だという先入観を抱いてこの本を手に取って読み始めたが、もともとがライトノベルだったとわかっても、この小説から受け取る文学の手応えに、明確な差など起こるはずがないと確信している。叶わぬ願いだが、作者が想定したであろう読者年齢、山田なぎさや海野藻屑と同年齢のときにこの作品と出会いたかったと思う。私は彼女らの前に大人になり、大人になってからもだいぶ経つ。純粋な子供の感受性を忘却してしまったような気もしている。この小説が持つ切実さを、心の奥で自分のことのように受け止められる時期に出会えた若い読者を羨ましく思う。そして、驚異的なこの作品を完成させた作者の才能に、心からの賞賛と感謝の気持ちをおくりたいと思う。

 最後に、「鬱小説」のランキングで一位になったのではなく、「大好きな鬱小説」で一位になったことは重ねて伝えておきたい。読んだ人は、大好きになれる小説なのである。

 それからもうひとつ、私はこの小説の中で、田舎の風景を言葉に写し取った優れた情景描写に強く感銘を受けたことも伝えたい。読む価値のある素晴らしい描写である。

2023/03/26


書籍 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』 桜庭一樹 角川文庫

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 今回の書評(感想文)は新作ですので、いつもの【追記】はありません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。




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