宮本輝『幻の光』《砂に埋めた書架から》57冊目
『幻の光』を手にしたのはいいが、関西弁の語り口に自分がうまく乗っていけるか、慣れることができるか心配で、なんとなく読むのを遠ざけてきた。
それだけに、ふと気が向いて読み出したあと、この作品の凄さを知って愕然としてしまった。
能登半島の荒涼とした海と、その合間にちかちかと光る波の煌めきを眺めながら、かつて自分が愛した夫の謎の死を、そして、自分の半生を、女性の主人公が静かに思い返す、という内容。
女性の一人語りのスタイルを取るこの小説は、全体が死のイメージに覆われており、暗い影も漂っているが、それは日本海の暗く厳しいイメージと重ねられているわけで、宮本輝の言葉の才能が、作品の隅々にまで行き届いていた。余計な言葉も不足の言葉も一切ない。こういうのを完璧な小説というのだ。
宮本作品は心の深いところまで届く。人間が描かれており、感情が揺すぶられる。『錦繍』も好きだが、この作品を読んでからは『幻の光』も好きになってしまった。
『幻の光』宮本輝 新潮文庫
◇◇◇◇
■追記■
この書評(というよりは感想文)は、2002年6月に作成したものです。
宮本輝の作品は十代の終わり頃から読んでいて、一番最初に読んだ『錦繍』に心を撃ち抜かれてからは、自分の中に宮本輝ブームが訪れてぽつぽつと長編や中・短編集を取り混ぜながら読んできました。
当時は読書をしたあとに感想を書き残す習慣がなかったので、今となっては詳しい内容は忘れています。これから感想文を書くとしたら、さすがに再読しないと無理だと感じます。
ただ、読んだ本を眺めていると蘇る記憶もあるもので、作品の短い印象ならばこのnoteの場を借りて書き残せるかも知れない、と考えました。
このあと、思い出せる限り、できるだけ短く、読んで感動した宮本作品に触れてみたいと思います。個人的な思い出も含まれるので、これは自分のための覚え書きの記事になると思います。
紹介するのは古いものばかりです(最近の作品は全然読めていないので)。もしも初期の宮本輝に親しんできた方がいらしたら、わずかばかり懐かしんでもらえるかも知れません。
◇◇◇
私が読んだ(あるいは読むつもりで積んでいる)宮本輝の二十五冊(発表年代順)
・『螢川・泥の河』新潮文庫
芥川賞受賞作『螢川』は、蛍が乱舞するクライマックスのシーンが印象的だ。文章で表現された蛍のシーンで、これほど美しく作り上げられた光景が他にあるだろうか。太宰治賞の『泥の河』は出だしから暗いイメージだが、やはり最後はせり上がるように感情が突き動かされる。
・『幻の光』新潮文庫
隅から隅まで完璧な小説。江角マキコ主演で映画がつくられているようだが、私は未見。
・『二十歳の火影』講談社文庫
著者最初のエッセイ集。この中に収録された『途中下車』を読んだときの衝撃は忘れられない。短いが名エッセイだと思う。
・『星々の悲しみ』文春文庫
著者最初の短編集。『星々の悲しみ』と『西瓜トラック』が印象に残っている。『星々の悲しみ』の外国文学をサクサクと読める主人公が羨ましかった。
・『道頓堀川』新潮文庫
川三部作の三作目。未読。
・『錦繍』新潮社 新潮文庫
最初に読んだ宮本輝作品。私はこれでやられた。文庫で読んだが、単行本には水上勉と錦繍をめぐっての対談「華やぎを縫い取る」というリーフレットの付録があり、それが読みたくて単行本も購入した。
・『青が散る』文春文庫
地元ではドラマが放送されなかったにも関わらず、このタイトルを見るたびに松田聖子の「蒼いフォトグラフ」が頭の中に流れ出す。濃密な青春小説で想像以上の読み応えがあった。
・『命の器』講談社文庫
エッセイ集。著者はエッセイであっても、手を抜く、ということを絶対にしないことがわかる。
・『流転の海』新潮文庫
開始から四十年かけて書き継がれることになった宮本輝の自伝的長編大河小説の第一部。すべて完成してから読もうと思っていたので未読。そして全九部が完結したというのに未だ読めていない。
・『春の夢』文春文庫
紛れもない青春小説。宮本輝の小説はひたすら明るいだけでなく影も描いているから深く心に刺さるのだろう。これを読んでいたときの十代の自分を思い出す。
・『道行く人たちと』文春文庫
対談集。
・『避暑地の猫』講談社文庫
この作家が軽井沢の避暑地を舞台にサスペンスを描くとこうなるのかとゾクゾクしながら読んだ。ドラマ化された作品も面白く、毎週テレビの前に釘付けになっていた。
・『夢見通りの人々』新潮文庫
架空の町を舞台にした連作短編集。とても好きな作品。特に「第一章 夢見通り」は繰り返し何度も読んでいる。主人公里見春太の詩に対する考え方は、自分のそれに近いと思った。
・『優駿』上・下 新潮文庫
緒形直人、斉藤由貴主演の映画の印象が強い。小説と映画、どっちを先に経験したか自分でも忘れている。競馬に興味がなかったのですぐに飛びつけなかった作品だったが、読んだあとにサラブレッドという馬の美しさが身に沁みてわかるようになった。
・『五千回の生死』新潮文庫
短編集。その状況に思わず笑ってしまう表題作は、一度読んだら忘れられないインパクトを残す。『トマトの話』『眉墨』も印象に残っているが、中でも『力』という短篇には泣かされた。
・『花の降る午後』
自分では読んだつもりだったが本が見つからない。ひょっとしたらテレビドラマと映画の両方を観て、本を読んだ気になっているだけなのかも知れない。タイトルが美しい。
・『愉楽の園』文春文庫
異国が舞台の長編小説。題名も表紙も不思議と心に残り、ストーリーは忘れてしまったが、ひんやりとした暗い石造りの通路を進む場面が思い浮かぶ。だが、本当にそんなシーンがあったかは自信がない。
・『海岸列車』上・下 毎日新聞社
単行本を新刊で買った初めての宮本作品。新聞連載時に断片をちょこちょこ拾い読みしていたので、本が出たら買おうと思っていた。ちょうど大人の恋愛小説が読みたくてたまらなかった頃でもあった。
・『真夏の犬』文春文庫
短編集。表題作の他に『力道山の弟』や『階段』が何気に覚えている。だが一番は『チョコレートを盗め』。妖しい。そして淫靡。
・『ここに地終わり 海始まる』上・下 講談社
これも単行本で買った。私が勧めた本を読んでくれる読書好きの友人にあげたので、手元には残っていない。
・『彗星物語』上・下 角川文庫
ビーグル犬のフックが愛らしい。皆から慕われる動物が出てくる小説には、最後に避けられない場面が待っている。これは決まり事であり、運命なので仕方ないが、やはり落涙と嗚咽はまぬがれない。
・『本をつんだ小舟』文藝春秋
読書エッセイ。この本の影響で、私は山本周五郎「青べか物語」と井上靖「あすなろ物語」を読んだ。見事にはまった。
・『胸の香り』文春文庫
短編集。どうしてだろう、読んだ記憶がない。たぶん未読。
・『月光の東』中公文庫
途中まで読んで中断していたら、時間が経ちすぎてすべて忘れてしまった。もう一度最初から読もうと思う。
・『草原の椅子』上・下 毎日新聞社
以前、勤めていた会社に本好きの女性社員がいて、この本を単行本で貸してくれた。本好きの知り合いが珍しかったことと、宮本輝を読んでいる知り合いも珍しかったので、ありがたく貸してもらった思い出がある。人間関係においてブラックな会社で、相談に乗ってくれたり夜更けまで悩み事を聞いてもらったりした。優しい年上の女性だった。
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最後の方は作品にすら触れず、個人的な思い出を書いてしまいました。ここまで読んで下さってありがとうございます。
改めて眺めてみると、宮本輝は作品数も多いし、作品の出来映えにあまりムラを感じません。読めば必ず何かしらの感動を与えてくれる小説家であり、それだけ小説の作り方を熟知している作家だと思います。
私は初期作品しか読んでいない中途半端なファンですが、小説に興味があり、読書を始めたい人にお勧めを訊かれたら、宮本作品は必ず選択肢に入れるだろうと思います。読んでも損はしないと確信しているからです。私にとって宮本輝はそういう作家です。
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