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上田岳弘『ニムロッド』《砂に埋めた書架から》63冊目

 上田岳弘は現代の日本文学を牽引する若手作家の代表的な存在である。

 2013年に新潮新人賞を獲ったあと、『私の恋人』(2015)で三島由紀夫賞、そして『ニムロッド』(2018)で芥川龍之介賞、最近では『旅のない』(2021)という短編小説で川端康成賞を受賞するなど、その実力は保証済みである。流行りの文学好きなら押さえていて当然の作家であろう。

 しかしながら、私は「上田岳弘」の名前は存じ上げていたものの、作品の方は読んでいなかった。正直に告白すれば、名前の読みすら誤って「岳弘たかひろ」であるところを「たけひろ」と覚えていたほど曖昧な認識でいたのである。そんな失礼極まりない私が『ニムロッド』を読もうと思ったのは、自分の部屋に積み上がっている本のタワーで群像の2018年12月号をたまたま目にしたからだった。そして、いつもそうするように、作品の冒頭を試しに読んでみたら、雑味なくスッと頭に文章が入ってきて、そのままするすると気持ちいいくらいにページが進んでしまったのである。文章に快楽が潜んでいる小説は面白く読める、というのは自分だけの経験則だが、私はその気持ち良さを理由に『ニムロッド』を読むことに決めた。私にとって初めての上田岳弘だった。

 コンピューターサーバーの保守サービスの会社に勤務する主人公中本なかもと哲史さとしは、ある日、社長から「金を掘れ」と仮想通貨のビットコインの「採掘」を命じられる。ビットコインの場合、通貨としての価値を保証する国家や中央銀行が存在しないため、取引履歴を記載した台帳がその信用元になる。台帳にビットコインの取引データを記載するには、改竄が不可能な暗号技術(ブロックチェーン)を用いる必要があり、そのアルゴリズムの計算に参加したPCには、それに見合う報酬が新規発行のビットコインで与えられる仕組みになっている。それが「採掘(マイニング)」と呼ばれているもので、まったくの虚無から何かを取り出している感覚を、この作業はもたらしてくれるのだ。

 物語は主人公の中本哲史を中心に、中本の先輩社員で作家志望の荷室仁、中本の恋人で外資系証券会社に勤務する田久保紀子、主にこの三人が関わり合う形で進行する。

 この作品を読み始めたとき、最初に私の目を惹いたのは、「駄目な飛行機コレクション」という短い文章が、本文の合間にたびたび挿入される構成になっていることだった。人類がこれまでに開発した数々の飛行機の失敗作を毎回一機ずつ紹介する内容で、一見、本編とは何の関係もない手紙形式のコラムのようなのだが、のちに、これは作家志望だった荷室仁が「ニムロッド」という名義で中本宛てに定期的に送ってくるメールであることが明かされる。

 小説の本編に適宜挿入される独立した短文。……私の乏しい読書経験の中で、このような構成を持つ小説に実は心当たりがあった。それは池澤夏樹の初期の作品『真昼のプリニウス』『マシアス・ギリの失脚』である。『真昼のプリニウス』では、電話サービス・システムを使ってランダムに提供される百科事典の如きトピックの集合「シェヘラザード」。『マシアス・ギリの失脚』では、日本から訪れた慰霊団四十七人を乗せたまま島で行方不明になったバスの目撃情報を集めた「バス・リポート」。これらは、上田岳弘の『ニムロッド』における「駄目な飛行機コレクション」と同じように、本文に複数回差し込まれる独立した挿話の位置付けにありながら、作品全体に多大な効果をもたらす働きをするのだ。

 作者が先行する池澤作品を念頭に置いて、この小説の構成を組み立てたかはわからない。私の単なる連想でしかない。ただ、そのせいもあって、『ニムロッド』の明晰な語り口と文章の雰囲気に、池澤夏樹の文体の趣を非常に強く感じたのだった。私の好きなタイプの作品だと改めて思ったのである。

 登場人物の三人は、それぞれ内面に何かしらの苦しみを抱えて生きている。ニムロッドこと荷室仁は、IT企業で会社員をしながら作家を目指していたが、新人賞の最終選考に三回連続で残りながらもすべて落選し、鬱病を発症している。離婚歴のある田久保紀子は、最初の結婚で妊娠したが、NIPTの結果を受けて堕胎したことで心に傷を負い克服できずにいる。中本哲史は、この二人よりは深刻さはないが、なぜか左目からだけ感情をともなわない水みたいな涙がぽたぽたと流れる謎の症状を抱えている。この小説では、これらの事柄のひとつひとつが細く繋がり合い、見えないところで結び付いて新たな意味を生み出していく。そうなのだ。上田岳弘の、一見、何でもないかのように置いてある言葉や文章は、やがて待ち受けている事柄と結び付いて、高い跳躍をみせるのである。中本の元に届くニムロッドからのメール「駄目な飛行機コレクション」しかり、田久保紀子がカート・コバーンが所属していたロックバンドの名前を出すくだりしかり、ニムロッドがサリンジャーについて言及する場面しかり、そしてもちろん中本哲史が掘り続けている仮想通貨しかり、すべてが無駄なく活かされて、最後は一塊の印象的なビジョンに結実するのだ。まるで点と点を繋ぐと線になるように。そうやって出来上がったいくつもの線が重なって意味のある構造物を描くように。

 上田岳弘がパースのある言葉で建築したそれは、古代神話めいた外観の高い塔である。溶けて一塊になった人間たちを見下ろし、屋上には何の役にも立たない無駄の塊のような飛行機を並べた巨塔である。この塔が意味するもの、この塔の天辺に立つ者を理解できるのは、もしかすると、心血を注いで完成させた作品が何度となく落選した経験のある作家志望者のような、たくさんの失敗を積み上げてきた人間だけなのかも知れない。ニムロッドのように。

 今回の感想は以上である。予想はしていたが、この作品を語るのは一筋縄ではいかないようだ。もっと細部を解きほぐして、様々な気付きを述べていきたい気持ちはあるが、それだとこの感想文はさらに長くなってしまうだろうし、随分ととりとめのない紹介になってしまうだろう。まだ入り口しか語っていない気持ちなのだが、重層的な構造の小説は、いくつもの切り口を用意しないと語り尽くせない。二百枚しかない中編小説だが、『ニムロッド』は、まさにそのような作品だと思う。

 初めて読んだ上田岳弘の作品は、私にとって刺激に満ちていた。今は彼のデビュー作が掲載された文芸誌を、自分の部屋の中に積み上がった書物の塔から探し出したい気持ちである。そういえば、『ニムロッド』を読もうと思ったのも、たまたま書物の塔の一番天辺にあったからだったが、さすがに少し出来過ぎのような気がする。

2023/05/17


書籍 『ニムロッド』上田岳弘 講談社文庫

解説目当てもあり文庫本購入


実際に読んだのは「群像」2018・12月号

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 今回の書評(感想文)は新作ですので、いつもの【追記】はありません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。




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