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山本周五郎『樅ノ木は残った』《砂に埋めた書架から》61冊目

 たとえば、読後にしみじみと胸に広がる深い余韻。
 たとえば、短い物語の中に生き生きと伝わる人間の悲しみ、情の深さ。
 繰り返し読んでも泣けて、出来れば自分だけのものにしておきたいと思う短篇の宝庫。

 それらはすべて、山本周五郎の魅力である。

 短篇に名作が粒ぞろいの周五郎だが、彼には大長編の作品がいくつかある。その中のひとつが、周五郎の人気を決定づけた重要な作品、『樅ノ木は残った』である。

 江戸時代初期の寛文(1661~1673)のあいだ、仙台藩の伊達家で実際に起きた「伊達騒動」という謀反事件に材を取り、その中の極悪人とされている家老原田甲斐はらだかいの人物像に、山本周五郎は独自の視点で光を当てる。

 従来、このお家騒動の中心人物として、最初に刀を抜いて伊達安芸あき宗重を斬り付けて殺害した悪人、原田甲斐だが、実は藩取りつぶしの画策を練る幕府から、伊達藩を守るために、一切の悪事を自分の仕業と見せかける凄まじい役割を一身に引き受けた人物だったのだ。山本周五郎は、史実に対してまったく逆の解釈をこの原田甲斐に与え、転換してみせたのである。

 現代のスパイ小説を思わせる騙しや欺きといった知の攻防。敵と味方の息詰まるような心理戦は、読んでいて非常に面白く痛快だ。

 悪人とされている者が、善人へとひっくり返っていく快感もさることながら、原田甲斐という人間味溢れる人物像に、まず読者は惹かれ、作品終盤の、彼の壮絶な最期が胸に迫ってくることだろう。


書籍 『樅ノ木は残った』上・下 山本周五郎 新潮文庫

◇◇◇◇

■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、2002年1月に作成したものです。

 現在『樅ノ木は残った』の新潮文庫版は改訂されて活字も大きくなり、上中下の三巻になっています。以前は上下の二巻でした。

 本のカバーや帯はボロボロにしても、本のページに線を引いたり書き込んだりすることには抵抗のある私ですが、二十一年ぶりにこの本を手に取ってみたら、当時の自分が唯一、鉛筆で薄く線を引いている箇所を見つけました。珍しく強い感銘を受けて、後で見返そうとしたのかも知れません。

 それはこのような文章でした。私が読んだ新潮文庫の下巻、七十三刷の443ページ、主人公原田甲斐の台詞です。

「——意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立もりたてているのは、こういう堪忍や辛抱、——人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」

山本周五郎『樅ノ木は残った』下巻p443より.


 この大作の終盤近くで、この台詞を読んだ私は、そうとう心をつかまれたのだと思います。ここにはおそらく、作家山本周五郎の信念のようなものが刻まれています。この台詞は、作家自身の言葉だと私は思ったのだと思います。

 そして今、引用して気付いたのは、山本周五郎はかぎ括弧に入れた台詞の中では、句点を使うべきところでも読点で言葉を繋ぐのだな、という個人的な発見です。これまで山本作品を読んできて今日初めて気付きました。些細なことかも知れませんが、このこだわりは、作家の台詞に対する意識の表れだと思います。

 さて、新潮文庫に収録されている山本周五郎の作品の中で、上下巻のある大作はこの『樅ノ木は残った』の他に、『ながい坂』『虚空遍歴』とあって、私はその中の『ながい坂』を読んでいます。これは史実を元にした作品ではなく、完全なフィクションですがやはり感動しました。山本周五郎の作品は、どういうわけか感動するのです。これについては小説が上手い、としか言いようがありません。感動するのは短編でも同じです。

 数多くの短編作品を残している周五郎ですが、さほど多く読んでいるわけではないこの私でも、どれだけじんとさせられ、どれだけたまらない気持ちにさせられたか、というくらい、印象に残る作品に溢れています。数少ない読書量の中からお気に入りの短編を列挙してこの感想文を終わりにしようと思います。

「こんちうまの日」
「なんの花か薫る」
『大炊介始末』新潮文庫より.

「城中の霜」
「水戸梅譜」
「ほたる放生ほうじょう
『日日平安』新潮文庫より.

「松風の門」
「ぼろとかんざし
釣忍つりしのぶ
『松風の門』新潮文庫より.

 お涙頂戴の物語だと思われる人もいるでしょう。得てして時代小説とはそういうものだ、と思う人もいるかも知れません。でも山本周五郎がただの人情劇として書いたものは、ひとつとしてないことは確かなようです。私もそう思います。




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