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アンナ・カヴァン『氷』《砂に埋めた書架から》66冊目

 私がちくま文庫から出ているアンナ・カヴァンの『氷』を購入したのは今から五年前、二〇一八年の五月だった。どういう経緯でこの小説家とこの作品のことを知ったのかは忘れてしまったが、おそらくTwitterのタイムラインで見かけて興味を持ったのだと思う。私はいつもそうするように、本編より先に訳者のあとがきと川上弘美氏による解説を味わった。そして、本編の前に掲載されているイギリスのSF作家、クリストファー・プリースト氏による十ページほどの長さがある序文に目を通したあとは、一章の冒頭をわずかに読んだだけで、積ん読の棚に放り込んだまま五年間も眠らせていたのである。いつか機会がきたら読もう、と思いながら。

 そのいつかは、先月の半ばにやってきた。夏の暑い日が続いていて、読書にも涼を求めたくなったとき、ふとカヴァンの『氷』を思い出したのである。主人公の「私」は車で道に迷い、立ち寄ったガソリンスタンドの主人から、厳寒期が始まるから氷には用心しろ、と警告を受ける。そんな冷気の気配が漂う冒頭のシーンを私は覚えていたのだ。二五〇ページ程度の薄い本なので、場合によってはすぐに読み終えるだろうと、このときの私は軽く考えていた。しかし、カヴァンの『氷』をすでに読んでいる方はご存知と思うが、この小説は常識の外れた書き方で構成されている。文章が難しいわけではない。だが、アンナ・カヴァンが採用した特異な書き方によって、読者はこの作品を思わぬ難物として受け止めるであろうことが想定されるのである。

 私は読んでいて、本編の最初の五ページ目でいきなり躓いた。荒廃した土地を知り合いの少女に会うために車を走らせていた主人公の「私」は、ガソリンスタンドの主人の警告通り、夜間に雹と雪に見舞われて、凍りついた路面で何度もスリップし、ハンドルを取られる。「私」はかつて訪ねたことがある少女とその夫の住まいに向かっているのだが、その道中は困難を極めていることが描写される。だが、生け垣の上に白い花が咲き競う場面からこの小説の文脈は一変する。途切れた生け垣のその奥に、ヘッドライトに照らされた少女の白い裸体が浮かび上がり、侵食する氷によって足と踝を固定されて動けなくなっている少女の足元から、さらに氷が這い昇って膝から腿を覆っていくという悲痛な描写が始まるのである。何の前触れもなしに突如、裸の少女やその背景にある氷の輪やそそり立つ氷の断崖といったビジョンが差し込まれるので、読者にとっては非常に面食らう箇所だろう。私はわけがわからなくて、ここだけ何度か読み返したほどだ。文章はそのあと、少女と出会った過去を回想する主人公の述懐に移り、かつて、少女とその夫と三人でピクニックに出掛けた思い出が語られるのだが、そこにすら現実からかけ離れた氷の描写が紛れ込んでいるため、読んでいる側としては不可解で不安な気持ちに突き落とされるのだ。ようやく元の車のシーンに戻ったとき、正直私はほっとしたのだった。

 いったい、あの本文に不意に差し込まれる幻想的なシーンは何だったのだろうか。主人公の脳裏に浮かんだイメージを描いたようにも受け取れるが、あとで説明されるものなのか、あるいは、読んでいくうちにわかってくるものなのか……。狐につままれたような感覚を引き摺りながら、私は『氷』を読み進めていったが、この困惑は、実はまだほんの序の口であったことがやがてわかってくる。カヴァンはこのあとも、何の説明もなしに幻想的なカットを差し込み、それだけにとどまらず、語り手である「私」の視点を逸脱して、「私」が知るはずのない少女の身に起きた出来事をつぶさに描いたり、「長官」というこの土地で絶大な権力を持つ人物と少女の二人だけしかいない空間のはずのところを、まるで「私」がそばにいて二人の会話を聞き、行動を見ているかのように描いたりするのだ。およそ一人称のルールを無視したこの書き方は、いったいどういうことなのだろうか。どれもこれも、想像力が旺盛な「私」の妄想だと理解したいところだが、たとえば本編の第6章で、長官と少女が〈高い館〉から誰にも知られぬようにこっそりと抜け出して車に乗り、山の凍結した悪路を疾駆する場面がある。途中、行く手を遮る有刺鉄線と金属で補強されたゲートを、長官の運転する車は破壊音とともに強行突破して銃撃を受けるが、この場面に「私」はいない。では、ここでの語り手は誰なのか? 「私」の妄想シーンでないとすれば、一人称がいつの間にか三人称へとスライドし、長官と少女が体験した現実のシーンとして語られていることになる。実際、第9章では「私」が長官への面会を希望し、建物の中にある食堂のテーブルに案内されるが、そこで将校たちと交わしている長官の話の中に、(大型車での逃走、ブリザード、国境ゲート突破、銃撃、少女)といった内容を「私」は耳にするのだ。まさに第6章の場面のことなのである。

 夢なのか幻覚なのかわからない。誰かの記憶なのかただの妄想なのかもわからない。しかし、それは鮮烈なビジョンとなって、本編の中に前触れもなく出現し、テキストを侵食する。普通の小説家であればこんな風には書かないだろう。確実に読者の混乱を招くからだ。私は本作を読みながら、アンナ・カヴァンはこの小説を書いていて、不安にならなかったのだろうかと余計な心配をした。せっかく手に取ってくれた読者が、意味を探ろうと読み続けて疲弊し、途中で本を放り投げる可能性もある。この表現に挑んだ作者の精神は、並大抵のものではない気がする。まさに、特異な書き方という他ない。

 核兵器の使用で極地に変容が起こり、気候変動が生じて地球規模の寒冷化が始まった世界が、この作品の舞台である。氷塊が壁になって迫り、防ぎようのない寒さに人々は追い立てられる。実際に陰鬱で恐ろしい事態ではあるが、たとえば第13章で主人公の「私」が飛行機の窓から見降ろした海面の光景はどうだろう。そこには海を切り裂いてゆるやかに氷の壁が進行していく様子が、震えがくるほどの美しい比喩と言葉で描写されている。(この世のものとは思えない超常的な光景)を謳うアンナ・カヴァンの文章が構築する氷の暗喩には、破滅的な美しさが湛えられているように思うのだ。

 この小説は、主人公の「私」が、逃げる少女を追いかけて探し求める話である。少女はどういう理由によるものか「私」を拒絶し、幾度も行方をくらますが、「私」は諦めずに探し続け、ときには偶然を味方につけながら、様々なルートや手段を講じて少女の元に辿り着く。少女は透きとおるような白い肌と銀白色の髪を持つアルビノで、少女に対する「私」の執着は常軌を逸しているようにも見える。同様にこの国で相当な地位にいる「長官」も少女に執着していて、「私」の前に立ちはだかるのだ。追跡と逃亡がこの物語の主旋律となり、鮮烈なビジョンや強烈な違和感のあるシーンが差し込まれても、必ずまた主旋律にもどるので、『氷』を最後まで小説として楽しむことができる。そこには他では味わえない特別な読書体験が約束されている。

 最後に、アンナ・カヴァンの小説は「カフカ的」という形容をつけて語られることが多いと聞いた。私は恥ずかしながらフランツ・カフカの作品は『変身』しか読んでいないのだが、「カフカ的」という言葉を聞くと、関連するいくつかの作品を思い浮かべてしまう。多和田葉子のデビュー作『かかとを失くして』やカズオ・イシグロの『充たされざる者』。いずれも私は未読なのだが、「カフカ的」と呼ばれている作品として真っ先に思い出すのがこの二冊だ。それから、ポール・オースターの『シティ・オヴ・グラス(ガラスの街)』そして『幽霊たち』といった作品も、「カフカ的」の仲間に入るかも知れない。固有名詞が排除され、地名や施設名もあってないような名前で、なぜか不条理な目に遭い、中心に向かおうとしても周辺をぐるぐると回らされ、最終的に辿り着かないという迷宮構造。今回、『氷』を読んで、言われてみればたしかに「カフカ的」だと思った。そして、改めて『氷』の巻頭に掲載されたクリストファー・プリースト氏の序文と、山田和子氏のあとがきと、川上弘美氏の解説を読んで、目から鱗が落ちる思いだった。五年前に読んだときはあまりぴんと来なかったが、本編を読み終えた今は、様々な疑念が「氷解」し、書いてあることの多くに共感している自分がいた。わかりづらかったスリップストリーム文学という概念も、以前よりは理解できた気がする。気がするだけかも知れないが。

2023/08/03


書籍 『氷』アンナ・カヴァン 山田和子/訳 ちくま文庫

おしゃれな装幀

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今回の書評(感想文)は新作ですので、いつもの【追記】はありません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。




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