見出し画像

私だけ、愛してた。

若かった頃の私にとって、恋愛は常に、ヒリヒリとした心の痛みを伴い、まるで傷つくために出会うようなものだった。

当時の私が「彼氏」に求めていたものは、純粋で一途な愛情と、永遠に続く安心感。
けれども、当たり前だけど10代や、せいぜい20代の男性に、そんなものを求めたって無駄だ。要求するほうが間違っている。
あまりにもニーズが違い過ぎて、だから私の恋愛はいつも、うまくいくはずもなく長続きしなかった。

私の望む「真実の愛」なんて、この世界のどこにもない。
オスカルとアンドレのような、花村紅緒と伊集院忍のような、北島マヤと速水真澄のような、キャサリンとヒースクリフのような、スカーレットとレットのような⋯⋯。
どこをどれほど探したって、世紀の大恋愛もなければ、魂の片割れも存在しない。
大した恋愛遍歴でもないけれど、大人になるにつれて私は少しずつ、そう悟っていった。


正直に言うと私は今でも、恋愛共依存の区別がつかない。
半生を振り返ると、まるで呼吸するように自然に私は、あらゆる人間関係において共依存に陥ってきた。

共依存とは、自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、その人間関係に囚われている関係への嗜癖状態を指す。すなわち「愛情という名の支配=自己満足」である。共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平穏を保とうとする。

Wikipediaより抜粋引用

もしかすると、私の個人的な恋愛遍歴はすべて、共依存であると同時に、ただの幻想だったのかもしれない——。そんな考えすら頭を過る。


竹内まりやの「駅」という曲がある。
当初、中森明菜のアルバムの楽曲として提供され、その後1987年にセルフカバーされたこの曲を、覚えている人も多いだろう。

かつての恋人の姿を偶然、駅で見かける。
同じ電車の隣の車両に乗って、その姿を目で追う。
たぶん彼は、こちらに気付いていない。
別れてから二年が経ち、今はそれぞれに待つ人がいる。
だから「私」は、声をかけないまま改札口を出ていく。
そんなシチュエーション。

見覚えのある レインコート
黄昏の駅で 胸が震えた
はやい足どり まぎれもなく
昔愛してた あの人なのね
懐かしさの一歩手前で
こみあげる 苦い思い出に
言葉がとても 見つからないわ
  (中略)
今になって あなたの気持ち
初めてわかるの 痛いほど
私だけ 愛してたことも

駅/竹内まりや


最初にこの曲を聞いた時から、ずっと私は、

私だけ 愛してたことも

の部分の歌詞を

私だけ「が」愛してたことも

と解釈していた。
けれどもひょっとすると、世の中の人たちは

私だけ「を」愛してたことも

と理解していたのかも⋯⋯と思いはじめた。
聞いてみる術はないけれど、竹内まりや本人も、そのつもりで書いたのではないだろうか。
私もまた、この年になってようやく、そんなふうに思えるようになってきたのだ。

私だけ「が」愛してた、のなら、それはどこか、被害妄想気質と言えるかも知れない。きっとこれまでの恋愛経験で、不必要に傷つき過ぎたのだ。
私だけ「を」愛してた、のなら、自己愛強めということになるだろうか。今になって初めてわかる、というのだから、少なくとも現在の暮らしは満ち足りているのかも知れない。
ものすごく乱暴なくくり方だけれど。

明日は、満月。
センチメンタルは、だからきっと秋のせいだ。





この記事が参加している募集

今こんな気分

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もしも気に入っていただけたなら、お気軽に「スキ」してくださると嬉しいです。ものすごく元気が出ます。