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アメリカで起きている中絶権問題:格下市民の女性

ずっと前、確か2000年前後に「神様に会いたい」というようなタイトルのNHK番組(うろ覚え)で、色々な信仰を持つ人々が紹介されていた中に、シバ神への信仰を示すため何十年もずっと右手を上にあげたまま暮らしている、というインドのおじさんを見た。 

最近再びその方の話がネット記事になっていて、おぉぉぉっ、あの方はまだ右手を挙げておられるのか!となんだか古い友人にばったり再会した時のように嬉しくなった。右手にハイファイブしたい気分。

最初にテレビで観た時点で既に右手のこぶしのあたりがもう原型をとどめていないような感じで、爪もくるくると伸び放題、指なども変形し壊死して変色していたりして、すごいことになっていたが、最近の記事によれば、なんと右手を上げ続けてもう45年以上経っているらしい。今となってはその形状以外を取るのは不可能になっているとか。

そんなにしてまで神様に会いたいとは!なんちゅうこっちゃの驚きの信仰心である。シバ神さまもさっさと会ってあげてくだせえ!と日本昔話の村人のようにひれ伏して懇願したくなる。

ところで、その番組を観た少し後(2002年頃)に、若くして結婚した妹の夫が乳飲み子と妹を置いて数か月間インドにバックパック旅行へ行った。すると旅行中の義弟の夢にインドの神様が現れ、「日本へ帰って仁侠映画の俳優になるか、自転車をインドへ輸出するビジネスを始めれば大成功を収めるだろう」と告げたという、おいおいそれって変なドラッグでもやったんじゃないの?みたいな眉唾な出来事があった。

インドの神様が仁侠映画ってピンポイントで渋すぎるジャンルを指定したのも驚きだし(よく仁侠映画を知ってたな!っちゅうのもあり)、しかも義弟は小さいもこみちみたいな見た目なので、仁侠映画の俳優になったら本当に成功しそうでもあり、インドの神様のセンスに唸った。

それにしても、右手を上げ続けて云十年のおっさんがまだ神様に会えてないというのに、日本からひょっとやって来た若者がすんなりインドの神様に会えてしまうとは、世知辛さにもほどがある。おっさんも右手を天高く突き上げながら「ええー?マジかよー!」と泣くよね。

(ところで最新の記事によれば、神様に会うために右手を挙げてるわけではないということも判明し、信仰心の証とシバへの畏敬の念を示すための行為で、自分を律するための手段でもあるということだったので、義弟が横入りしたわけでもなさそうだと分かったのだが。)

それにしても世の中にはいろんな信仰、いろんな人がいるもんです。

宗教の多様性、性の多様性、人種の多様性、障がいの多様性、家族の多様性などなど案外と概念として受け入れやすい多様性と(これは考え方として、ふーん、そうなんだ、と入りやすいという意味であって、それがシステム上、法律上、個々人の言動上ですっかり受け入れられているということではない、残念ながら)、哲学的多様性のようになんとなく受け入れるのに苦労してしまう多様性というのがある。

例えば、夢を持って頑張ってる人やその生き方は無条件に「夢を持ってはいないが日々の生活を暮らしている人」よりも優れているように思われがちだし、頑張り屋さんは、どうしても頑張れない人よりも評価される風潮もあるし、逆に、なんでもそつなくこなせちゃう人よりも、一つ一つに労力を要する不器用な人の方が美しいみたいな偏見もあったりする。本当はどっちでもいいのにね。

これは個人の好みの問題以上の、外から植え付けられた社会的規範みたいな観点から存在する偏見だったりするので、ややこしい。

誰かの決断や行動をジャッジする前に、これって自分の思い込みでは?と問いただして、軌道修正をしながら日々過ごすわけだけど、その軌道修正も、マリオカート並みの頻度で必要になってくるので、毎日舵取りに忙しい。

で、こうした多様性を考える時に難しいのは、「誰にも迷惑をかけなければ」という枕詞。これがどうしたって主観でしか成立しないため、どこでどう線引きするかが非常に難しいのだ。

例えば昨今アメリカで問題になっている中絶の合法性に関して、など。(丁度先日、中絶の権利の保障を覆す最高裁判決が出て全米を震撼中)

これって個人の見解の自由で、反対の人がいてもいいし、賛成の人がいてもいい。それぞれの決断であり人生です。それを法律で「中絶を違法」とする怖さ&危うさが問題になるのだけど、この二つ(個人の意見と制度としての規制)を分けられない時に危険な暴走が始まる。

というのも、なにしろこの問題を難しくしているのは、多くの中絶反対派が唱える「中絶とは殺人である」という確固とした信念であります。殺人ならば、当然法律で禁止するべきでしょとなるし、逆になぜ中絶を違法としないのか分からない!となる。 

この反対派にはキリスト教徒が多いが、もっと言えば、カトリック教徒の中には、精子を生殖目的で使用しないセックス諸々の行為が既に殺人であるという考えもあって、命がどこから始まるかという定義の遡り方はまるで鮭の遡上の如く、かなり遠いところまで行ってしまっている。そういう極端な思想による行為のせいで女性が中絶を余儀なくされる状況になっている場合などもあるわけであって、うーん…と目を細めてそういう男性たちをジャッジメンタルな目で見てやりたい気分になる(これに関しては多様性を認めないスタンスの私)。 

中絶に関しては、それぞれ様々な理由があって中絶に至るわけで、違法にすれば、闇中絶をせざるを得ない人が増えるだけの話(合法になる前がそうだった)。それによって危険にさらされる女性の心身のことを思えば、違法化を推す男性政治家たちのなんとも父権的思考の押し付けの怖さよ、と身震いする思いである。(反対派の中には女性もいるが。)

殺人か殺人じゃないかの線引きはきっと永遠に反対派と賛成派とで同じところに着地することはないであろうし、これは胎児の人権 vs 母体の人権に優劣をつけるのが難しいことも然り。そしてそのどちらかの考えを全員に強要するべきではないことに異議はない。

どちらかの考えを強要するべきではないからこそ、女性が女性自身の身体に起こっていることを選択する権利は法律で保証されて然るべきではないかと思う。そのうえでどちらの選択をするかは本人の決断。

中絶を違法とすると何が危ないか。

望まない妊娠を強制的にさせられうる人が自分の人生の選択をできなくなる。そのため妊娠しうるすべての人々(女性&様々なジェンダーアイデンティティの人々)の基本的人権が同等に保障されないという点において、妊娠しうるすべての人々がSecond-class statusとなることを強制される(Second-class status=他の市民とは同じ権利を保障されていない格下市民)。 

全ての男性が必ずしも女性の意志を尊重したうえで行為に及ぶわけではないということを鑑みても、中絶の違法化は女性の人権を脅かす危険な制度である。それならば逆に、ある年齢に達した男性全てにパイプカット手術を強制する法律を作り、妊娠を望んだ際にのみ再建手術をするというのでも良いのでは?それなら精子の殺人だって防げるよ。

中絶問題のみならず、その反対派が他にもどうにか覆したいと望んでいる避妊、性適合手術、同性婚などなどをドミノ倒し的に規制・違法化していく最初のきっかけになりうるという点でも、その動きを作るためにトランプ時代に打たれた布石が今こうして現実に最初の牌を倒した今回の判決で心配は増すばかり。 

色々な人の色々な特性と生き方とそれぞれの選択肢が受け入れられる社会への道のりの遠いことには眩暈がするようで、もしかすると45年間右手を上げ続けるより困難なのかもしれない。インドの神様ー、助けてー。

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