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キャンドルライトでエイミー・ワインハウスを楽しむ絶望と希望の一日

ブルックリンのイーストリバーに面した一角、ウィリアムズバーグというお洒落エリアにあるホテルで、エイミー・ワインハウスを偲ぶキャンドルナイトコンサートがあったので行ってきた。簡単に言うと、エイミー・ワインハウスの歌を無数の蝋燭(の形を模したライト)で飾り付けた会場で演奏するコピーバンドを見るイベントです。

キャンドルナイトシリーズは、クラシック音楽からテイラースウィフトまで様々なジャンルに渡る音楽イベントで、開催場所も大聖堂からヒップなホテル、野外など様々(上の写真もそのイベントの一つ)。お値段もニューヨークで見られる音楽イベントの中ではお手頃で、あまり気負わず行ける印象があったので、私たちもふらっと行ってみた。

バックバンドの演奏とコーラスの男性の歌が素晴らしく、小さな会場に詰め掛けた観客のエイミー・ワインハウス愛がさく裂して、堪え切れず踊り出す人が一曲ごとに続出し、最後は全員が踊りながら歌う、まるでうたごえ喫茶アメリカ版みたいなアットホームな空気が楽しかった。

ちなみに、私はエイミー・ワインハウスの歌は好きだが、沢山あるプレイリストの中の一つという程度のファン具合だったので、その場所にいた人々をエイミー・ワインハウス愛順に並べたら、恐らく夫が最後尾、その次に私、というくらいの最下位レベルだったはず。夫に至っては、エイミー・ワインハウスが誰か知らなかった(逆にツワモノ)。なので私たち二人は最後まで踊らなかった。私の場合は踊りと言えば盆踊りくらいしか踊れないという悲しき踊り音痴問題も相まって。(エイミー・ワインハウスで盆踊りは逆に難しかろう)

ちょっとだけ残念だったのは、歌い手の女性がエイミー・ワインハウスに似せようとしてか、ハスキーボイスを出そうと喉からぎゅうぎゅう締め出されるわざとらしい金切声になっていたのがどうも馴染めなかった。彼女の自然な声で歌った方が良いのじゃないかな?という気がした(彼女の自然な声がもしかするとそれだったらまぁあれだけど)。コピーをするとどうしても本物との差が目立つのは仕方ないですね。そしてエイミー・ワインハウスの絶妙なハスキー具合や深みのある声の素晴らしさは稀有なものだったんだなぁと改めて感じた。

暗い会場から出ると、さっきまで踊っていたお洒落女性ファンたちの顔が良く見えて、意外にも彼女たちが私と同じお年頃か三十代後半くらいの結構成熟した大人の方々であることに驚いた。そうなんです、エイミー・ワインハウスって永遠に27歳だから、そのファンもみんな20代のまま止まってる印象だけど、ファンたちはエイミーを置いて着実に過ぎた時間の分だけ生きてきたのです。まぁそうだよね。

エイミーさん、あれからアメリカではとんでもない大統領が誕生したり、世界はパンデミックに苦しみ、相変わらず沢山の銃乱射事件もあったし、内戦も戦争も天災もありましたよ、と思いながら、熱波に襲われたニューヨークの道を歩けば、鶏肉を丸ごと焼いたオーブンを開けた時のような熱い空気が身体を包み、私の見ることのない未来を想像して世界は大丈夫かなとちょっぴり悲観的になったり。さっきまで聴いていた音楽のように素晴らしいものはこの世に沢山あるのにね。

それはそうと、ウィリアムズバーグで何年ぶりだろうというくらい久しぶりに雑貨屋に入った。雑貨屋って、オンラインショッピングとは違って、自分のアルゴリズムでは永遠に上がってこないであろう様々なアイテムが、自分の好きそうな物の横に置かれてあったりしてとっても面白い。オンラインショッピングがネットニュースなら、雑貨屋って印刷された新聞のようだ。雑貨屋に並ぶ自分の小さな世界とは違う世界を目にしてみれば、まだ思いも寄らない未来の一手があるのかもしれないと氷河から染み出る水のように少し希望がしみ出てくるような気にもなったり…。

そんな風に、人間の抱える(生み出す)問題に絶望してみたり、でもまだなにかできるはず、と希望を持ってみたり、そういう繰り返しで、結局以前にも書いたけれど、「人間社会が一人の人間だとすれば、一人ひとりは細胞組織のようなもので、それぞれの持ち場でそれぞれの仕事をコツコツとすることが(そしてそれが間違った仕事でなければ)、それが人間(社会)を成長させる唯一の方法なのだ(なのかもしれない)と言い聞かせて、今日も小石を一つ一センチほど右へ避けたり左へ避けたり…。」(自分の記事から引用するズボラ)

というわけでその日も希望を持ったり絶望したり忙しい一日でした。

Amy Winehouseってどんなシンガーソングライター?と思われた方、例えばこんな感じです。


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