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落ちるコップに手を出すな:学科長になってしまいました

大学の新年度が始まりました=noteの更新が滞る。
2021年の5月に始めたnoteですが、全部で25本しか書いていないので、平均すると月1.5本。それもだいたい書かれているのは長期休み期間中。というわけで、ってどういうわけでもないが、ここからまたペースダウンする予感。

学期中の凝縮された仕事量による疲労が、まるでドーバー海峡を泳いで渡ったとき並みだという話は以前書いた通りなのですが、な・な・なんと、色々の紆余曲折を経て、しかも新学期が既に始まってからのドラマに次ぐドラマの後、今年からこのわたくしがなぜか学科長(学部長かも?Department Chair)になることになってしまったのです。

これは「おめでとう!」案件ではありません。念のため。誰にも言われてないけど。

いや、実は職場の同僚は口々におめでとう!と言っております。しかーし、いやいやいや!あれほど絶対に、絶対に、絶対にやりたくないと何度もはっきりきっぱりと言い切っていたのを忘れましたか?と白目でうぉりゃあっっと睨み上げたい気分で、冗談交じりにやいやい文句をこいていると、みんな笑っておりますが、心の中は大嵐。
 
大学で管理職になるということは、その上の管理職(いずれは学長、副学長)を目指していく人々には喜ばしいことではあるのですが、管理職に全く興味がなく、どちらかと言うと研究に集中したい人にとっては研究キャリアの終焉。墓場。ジ・エンド。

管理職になると、研究に割ける時間が激減するので、自動的に研究から遠ざかってしまう。理想は既に研究キャリアも辿り着くべきところまで来た人々が就任するのが一番です。
 
今は研究に重きを置きたい私にとっては不都合すぎるこの事態。って特に研究もばりばり進められてるわけでもないんですけど。学科長になると担当授業数は減るので(今学期は既に始まっているため例外[辛い])、もしかしたらもしかして案外悪くないなと思う可能性もあります。
 
今回、なぜ絶対にやりたくないと宣言していた私に白羽の矢が立ったのかと言うと、これは本当にどこの組織でもよくある問題ですが、複数の管理職の入れ替わりがあったこと、そして准教授以上(終身雇用を認められた者)だけが管理職になれるという新ルールができたこと、それによって学部内で学部長になれる者の選択肢が非常に狭まったこと、そしてその希少な選択肢の中で、色々な家庭の事情などで唯一可能に見えたのが私一人だったこと。つまり、ババを引いてしまった。これ、私の人生のあるあるパターン。
 
最初は私の希望を汲んで色々と皆で尽力してくれたのですが、結局副学長から許可が下りず、これ以上あーだこーだ言ってると、学部自体を別の学部の傘下に入れちまうぞ!と半ば脅されてのこの結果。なんだそりゃ。
 
この一連のやり取りの間、私の頭に浮かんでいたのは、以前、ジェーン・スーさんがポッドキャストやエッセイでも言われていた遠くの(誰かの)テーブルの端から水の入ったコップが落ちそうになっているのを、わざわざ走ってキャッチしに行くような仕事の仕方は辞めた方がいいという「コップ、ガッシャーン案件」。

いわば職域を超えて、または良かれと思って、または家族のためを思って、誰も頼んでいないし感謝もしないような仕事や作業を、私がしなければ大変なことになる!と勝手に手を伸ばしてあちこちの机から落ちるコップを次々に取りに行くのは辞めよう、そうしておいて、なんで私ばっかり!と嘆くのは辞めよう、という提案です。

「たとえコップがガシャーンと落ちて床が水浸しになっても、「あらぁ~」という顔をして動かない。後始末にも行かない。そういう、手を出さない胆力を育てる。」

それで水がこぼれたらこぼれたで、思ったより大した事態にならなかったという場合もあるし、やるべき誰かがその水の後始末をするかもしれないし、そのことによってシステム自体が改善されていくかもしれない。
 
半ば脅されて、追い詰められて、じゃあ学科長やります、という返事をしながら、もしや、これってコップガシャーン案件では?独立した学科が無くなったら無くなったで別にいいんじゃないの?みんなただ単にこれ以上のドラマが嫌で&時間切れが迫っているせいで、この選択肢しかないと思い込んじゃっただけなんじゃないの?
 
などなど考えたものの、学科がなくなるのは自分に直接関係することでもあり、これは一体どこのコップ?私の机から落ちかけてる?とお腹を壊すまで悩みました。

けれど、とりあえず一年間という期限付きで、どうにかどうにかと拝まれて頼まれて、承諾したのでした。承諾した途端の”Congratulation!の嵐には本当に白目だったけど。人を崖から突き落としておいて、落ちた勇気を称えるようなものだ。
 
ジェーン・スーさんの書かれているコップ・ガシャーン案件とちょっと違うところは、一応頼まれたからコップをキャッチした点、キャッチしたことでみんなからめちゃくちゃ感謝されている点、そしてその苦労を知っているので、既に多くの同僚が助けの手を差し伸べてくれている点。つまり、独りよがりではないというところ。おそらく。そう思いたいだけではないはず?

アメリカ暮らしが長いせいか、職業柄か分からないが、私は「ノー」を言うのが割と平気で得意です。ちょっと頑張ればできることでも、それが自分のやることリスト(やりたいことリスト)に全く関係のないことであれば、にこにこしながら「今はそれはできません。」とはっきり断る。
 
そうしなければ、本当に誰がやっても良いような、または別に誰もしなくても良いような雑用というのは無限に存在するし、みんながみんな「やりません」と言ったら言ったで、そのまま立ち消えになっていったプロジェクトやイベントや仕事は今までいくらでもあった。それで無くなったら無くなったで何も支障がないのです。
 
そして「ノー」と言ったからといって、評価が下がったり、使えないやつ、と言われたりすることもない。これは同僚に恵まれていることと、職場の文化が健全であることが大きい。

むしろ今の大学に移った時に当時の学科長から、「とにかく自分にとって重要な仕事以外は全て「ノー」と言いなさい!」と助言を頂いた。そうしなければどうでもいいような仕事で埋もれていくよ、と。そして冗談で、押すと「ノー!」という声がでる赤いボタンまでプレゼントしてくれた。そういう職場の文化なのです。

何にでもイエスと言って経験を積んで、それによって良い流れができてくる時と場合というのも勿論あります。それってつまり自分の机の自分のコップの水に関わる案件の時。

今回の学科長就任に関しては、これは手を出してはいけないコップだったのではないか、という疑念が今でも残ったまま、既に電車は発車してしまいました。

たったの1年なんだから大丈夫、という声かけも多く頂いたけれど、私にとっては大事な1年(毎年が大事な1年)を組織のために犠牲にしてしまうという感覚も強い。思い返せば、そうやって何年も自分の時間を自分以外のために使ってきて、それを見直してようやく最近自分のやりたいことに取り組めるようになってきた矢先のこれ。

果たしてこれは、塞翁が馬と出るのか??

*ジェーン・スーさんのコップガシャーン案件についてのエッセイはこちら。面白いです。


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