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祖父が歩いた支那事変〜出征〜

〜はじめに〜

私の祖父「N田健吉」は、私が物心がつく頃には既にパーキンソン病に侵されていて歩くのもおぼつかず、表情も乏しく、ボソボソとした喋り方であまり言葉も聞き取れない状態でありました。
それでも私が幼稚園の頃には、祖父の家に遊びに行って囲碁をしたり、日本刀(模造刀?)を見せてもらったり、ほとんど覚えていないけど戦争の話などを聞かせてくれました。

しかし私が中学に上がる頃には病状も進行し完全に寝たきりになり、私はそんな祖父に対してどう接していいのかわからず、時々お見舞いに行く程度で疎遠になってしまったまま、祖父は亡くなりました。

時が経って私も大人になり、歴史に興味が湧いてくると、祖父からもっと戦争の話を聞いておけばよかった、なぜもっと話さなかったのだろうと後悔する様になりました。
そして2015年10月、「南京大虐殺」がユネスコ世界記憶遺産に登録された事により、私は南京大虐殺について必死に調べましたが、事件の本質を掴むことができないでいました。

そんなある日、伯母に聞いてみたのです。

「祖父は戦時中はどこにいたのか?」と。

すると、伯母は一冊の本を取り出し、「掃除してたら出てきたから読んでみなさい」と渡してきたのです。

実は祖父はパーキンソン病を患う前、私が生まれる2年前に「忘れ残りの記」と言う手記を自費出版していたのです。

早速その本に目を通してみると、なんと、祖父は支那事変において南京攻略に立ち会っていたことがわかりました。

私は祖父の手記を頼りに、一兵卒が見たありのままの支那事変を書いてみようと思います。

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〜出征〜

私の祖父は、大正7年、熊本の田舎で桶屋を営む両親の元に生まれ、貧しいながらも慈愛に満ちて育てられ、平穏無事に暮らしてきたそうです。

伯母の話によると、貧しさ故に相当な苦労をしたとか。

軍都・熊本が誇る精鋭「第六師団」は満州事変にも出兵しており、祖父が中学の下級生の頃には出征兵士を見送ったこともあったそうです。

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祖父は陸軍士官学校への進学を希望し、勉強に励みましたが、何しろ陸軍士官学校は倍率100倍とも呼ばれる超難関校であり、祖父はいささかの自信を持ちながらも入試に落ちてしまいました。

祖父はその後、佐世保の海軍工廠へ採用されましたが、その「一般的には人が羨む職場」を蹴って、陸軍へ志願入隊してしまいました。

本人曰く、陸軍士官学校に落ちたことがショックで情緒不安定だった、とのことです。

祖父が入隊したのは、第六師団 歩兵十三連隊歩兵砲隊でした。

入営したのは昭和12年1月、19歳の事でありました。

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入隊して何日かたったある日、班長のA木軍曹が初年兵を集め、「入隊した感想を言ってみろ」と言いました。

初年兵はそれぞれに
「男子の本懐であります」
「お国を守りたいと思います」
と格好いいことを言いましたが、祖父は
「これがまぁ、終の住処かと言う気持ちであります」
と生意気を言ってしまい、祖父は一瞬、殴られるかもと思ったそうですが、A木軍曹はそれを聞いて
「お前は志願兵だったなぁ」
と頷いておられたそうです。

軍隊にも風流のわかる上官がいることがわかって安心したと語っています。

剣道をしていた祖父は、その縦のつながりが非常に強く、そのおかげで剣道経験者の上官から気にかけてもらうことも多かった為、
「N田のバックには○○さんがおられる」
と、たびたび上官の名と共に噂になり、恐れられていたそうです。
日々の訓練に明け暮れる毎日の中、昭和12年7月、ついに第六師団にも動員令が下されました。

祖父が配属されたのは第三大隊砲小隊。

動員令が下された事によって赤紙で招集されてきた新兵達が続々と入隊してきました。

この新兵達の中で特にキビキビ働いていた二名は、新婚早々の身であったそうです。

祖父は現役兵であるが故に先頭にたって仕事をし、不眠不休で軍備を整えました。

8月1日、熊本にとっては満州事変以来の出征となる日がやってきました。

支那では国民党軍による日本軍への挑発行為を看過できなくなり、北京、天津を平定する「平津作戦」が7月28日に展開されていました。

同時に北支方面への三個師団の増派も決定していたのです。

兵舎には別れを惜しむ出征兵士の家族が殺到しました。

祖父の父は家に残りましたが、母と姉夫婦、弟の賢一と三郎が、祖父が出てくるのを何時間も待ってくれていました。

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祖父の弟、賢一は祖父の姿を求めて立ち尽くしていましたが、祖父を見つけると走り寄り、そばを離れずに歩き続けました。

この時の兄弟の会話は覚えていないそうですが、おそらく、
「父さん母さんを頼む」というような事を言ったかも知れない、と祖父は回想しております。

流石に親との別れは辛かったそうです。

もともと一種の諦めにも似た感情で入隊したので、旅行にでも行くかのような明るい気分であったそうですが、幼い弟達、そして父母を残して死地に赴くのはなんとも申し訳ないと感じ、未練を断ち切るために祖父は駅までの見送りを断り、水道町までで別れる事にしました。

熊本駅に着くと目に飛び込んできたのは「皇軍万歳」を叫んで見送ってくれる人々の大群衆でした。

本来ならば、ドラマなどでよく見かける、見送る人々の「万歳、万歳」の声援を浴びながらの出征となるのですが、祖父は軍馬を世話するために貨車に残り、その光景を目にする事はできませんでした。

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列車が動き出すと、「生きて帰ろう」と自分に言い聞かせながら、故郷の空に向かって
「お父さん、お母さん、さようなら」
と敬礼をし続けるのでした。