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負け犬の遠吠え 第一次世界大戦1 日米開戦はじめの一歩

「日米開戦」という名の、日本の歴史にとって、とてつもなく大きな「爆弾」があります。

その爆弾が、1941年12月8日に爆発するための導火線に着火したのは、日露戦争が終わってからの事でした。


日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約を結んで満州を占領していたロシア軍を撤退させ、清に返してあげました。


そしてその見返りに、南満州鉄道の権益を手に入れたのです。10万人の命をかけてロシアから守った「満州」という土地は、日本人にとってかけがえのない存在になっていました。


そして日本は「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」を設立し、鉄道事業を中心に鉄鉱、製鉄、電力、港湾、倉庫など様々な事業を手がけ、満洲経営の中心になって行きました。

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そこへ目をつけたのがアメリカの「エドワード・ヘンリー・ハリマン」です。


ハリマンはユニオン・パシフィック鉄道とサザン・パシフィック鉄道の社長で、「鉄道王」と呼ばれていました。

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ハリマンは、ジェイコブ・シフと共に日露戦争で日本の公債を請け負った日本にとっての「恩人」でありました。


そのハリマンが、南満州鉄道の将来性を見出し、共同経営を持ちかけて来たのです。


桂太郎内閣は、日露戦争の負債に苦しむ経済状況や、ロシアに対する牽制も考慮してこれを受け入れ、仮契約を交わしました。


しかし、ポーツマス条約の調印を終えた小村寿太郎が帰国すると、


「10万人の命と20億円を犠牲にして得た満州権益をアメリカと共有する事など許されるものか」


と「桂・ハリマン協定」に賛成した面々を説破して回り、その結果、日米の共同経営の話はなかった事になりました。

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世界中が列強国の植民地支配下に置かれる中、広大な土地と人口を擁する支那の土地は、列強国にとっては「最後にして最大の植民地市場」です。


その利権争いに乗り遅れていたアメリカは、どうしても満州権益に食い込みたかったのでした。


この契約破棄の知らせをアメリカは、「日本が支那へ進出し、満州権益を独り占めしてしまうのだろう」と解釈し、ロシアに勝った日本の強さに恐れを抱くようになっていったのです。


バルチック艦隊を撃破した連合艦隊は、今や世界最強であり、太平洋の覇者であり、アメリカは連合艦隊に対抗しうる海軍力を持っていませんでした。


アメリカは急遽、軍艦を建造し、太平洋艦隊の編成を始める事にします。


「桂・ハリマン仮協定の破棄」この出来事は、日本の進路を大きく動かした分岐点であったと言えるのです。


もし、南満州鉄道の日米共同経営が実現したならば、日米は足並みをそろえてロシアと対峙することができ、東アジアは安定したかもしれませんし、韓国併合や満州事変も起きなかったかもしれません。


その為、小村寿太郎の選択を批判する人は数多くいます。


しかし、アメリカの真の目的は、帝国主義的な野心による支那利権です。


共同経営をしていたとしても、いつ日本に牙を剥くか、わかったものではありません。


日露戦争は、あの時点で終わらせなければ日本は滅んでいました。


戦勝国でありながらも賠償金を得られず、10万の命と20億をつぎ込んで唯一得られたものは南満州鉄道だけです。


条約締結後、小村寿太郎はホテルの部屋で泣きじゃくっていたといいます。


国を守るために、屈辱的な条約を受け入れざるを得なかったのです。


条約調印のために出発する時は大観衆の「万歳」で見送られた小村も、帰国の時は群衆から罵声を浴びせられました。


自宅には投石が続けられ、精神を病んだ妻のために別居せざるを得ない状況にまで追い詰めらてしまっていたのです。


もし満鉄の共同経営を認めていたら、国民の不満は爆発していた事でしょう。


私には、日本を守るために国民の不満を一身に背負った小村寿太郎の決断を非難する事はできません。


これまで親日的な姿勢を取り続けていたセオドア・ルーズベルト大統領ですが、アメリカ国内の対日感情が悪化する中、軍部に「様々な国との戦争シミュレーション」の作成を指示しました。


その計画は対象国によって色を名付けられ、「カラーコード戦争計画」と呼ばれます。


メキシコは緑、フランスは金、イギリスは赤、ドイツは黒、そして日本はオレンジでした。


平時においても、あらゆる国との有事を想定して計画を練っておく事は、非常に重要な国防戦略です。

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カラーコード戦争計画はやがて時代遅れになって行きましたが、日本に対するオレンジ計画は改定を繰り返し、研究され続けました。


アメリカは、日本を明確に「仮想敵国」として認定していたのです。


これらのような、日米の軍事的、政治的、経済的な摩擦が強くなる状況において、思わぬ苦境に立たされたのはアメリカへ移住した日本人移民でした。


ここで少し話を遡り、アメリカの移民の話をします。


19世紀に入り「奴隷制度の廃止」の動きが活発になると、イギリスやアメリカは黒人奴隷に変わる新しい労働力を支那人に求めました。


アヘン戦争から始まる清の没落に伴い、貧困にあえぐ多くの支那人が世界中に移住したのです。


そしてカリフォルニアで金が見つかり、ゴールドラッシュが起こったアメリカでは、大陸横断鉄道が作られる事になりました。


この時の労働力として利用されたのが「チャイニーズ・クーリー」と呼ばれる低所得層の支那系移民です。


白人達は彼らを黒人奴隷と同じように扱いましたが、チャイニーズ・クーリー達は低賃金ながらも貯蓄をし、商店を開き、共同で土地を買ったりしました。少しずつ資産を貯めていったクーリーの中には、金鉱の採掘権を得るほどの成功者が出るほどでした。

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これを面白く思わないのは、後からやってきた白人移民達です。


アメリカ大陸発見初期にやってきたイギリス・フランス・オランダ系の移民は東海岸に居座っており、後からやってきたアイルランド系や東欧からの移民は、西海岸へ向かうしかありませんでした。


農地や商店を経営し独自のコミュニティを築く支那系移民達と白人移民は衝突を起こすようになり、暴動にまで発展して多くの支那系移民が殺されました。


そして1882年、「支那人排斥法」が制定され、支那人がアメリカへ移住する事はできなくなってしまったのです。(それでも密入国は多かったのですが)

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それと入れ替わるように新しい労働力としてアメリカに移住したのが日本人移民です。


明治維新を終えた日本では、職を失った武士たちが多く、移民が盛んに行われていました。


日本人移民は知識と技術、不屈の精神と努力でカリフォルニアの痩せ荒れた土地を見事な農園、果樹園に変えてみせます。

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しかしそれは白人の嫉妬を生み出すばかりで、真っ当に評価されることはありませんでした。


そして1906年、カリフォルニア州をM7、8の大地震が起こります。

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このサンフランシスコ地震に対し、日本政府は日露戦争直後の財政難にも関わらず50万円(現在なら数十億円)の見舞金を送りました。


それにも関わらず、サンフランシスコに到着した地震学者の大森博士は腐った卵や果物を投げつけられました。


さらに日本人料理店は営業を妨害され、日本人はプールで泳ぐこともホテルに泊まることも拒否されるようになり、挙げ句の果てにはサンフランシスコの教育委員会は日本人移民の隔離教育を決定しました。(後に撤回)


有色人種に対する差別意識や地震での混乱もあったでしょうが、何よりも、日本が日露戦争に勝利したという事が、白人にとっての「恐怖」「脅威」になっていたのです。

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このように悪化していく日米関係において、更に日米の軍事的緊張が高まる事件が起きました。


「白船事件」です。


1907年、アメリカは海軍力を世界に誇示するために、新造された戦艦16隻を中心に「グレート・ホワイト・フリート」と呼ばれる艦隊を編成し、世界一周航海を行いました。


これは紛れもなく日本に対する威嚇、牽制行為であり、世界中の新聞社が日米開戦を騒ぎ立て、日本の外積が暴落するほどでした。


セオドア・ルーズベルト自身、「日米開戦の可能性は10%ほどあった」と回想しています。


日本へやってきたグレート・ホワイト・フリートを日本政府は手厚く迎え入れたため、軍事衝突を起こす事なく白船艦隊はアメリカへ帰って行きましたが、その二週間後に連合艦隊は大規模な演習を行い、アメリカの威圧行動に警戒しました。


こうして、日米両国はゆっくりと確実に、戦争への道を歩み始めるのでした。

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