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【小説】弥勒奇譚 第三十話(完)

弥勒は黙って不空の話を聞いていたが大きく息を吸って口を開いた。
「もったいない話でお礼の言いようもありません。
自信はありませんが師匠の仰せの通りにいたします。いくらかでもお役に立つよう仕事をさせてもらいます」
「では不動殿に話をしなさい。まだお願いしていないのだろう。私からもお願いするから」弥勒は全身から力が抜けていくのを感じた。
話を聞いた不動は驚いた。
「わしとしては願ってもない話じゃが弥勒殿は本当にそれで良いのか。このような山里では存分に腕を揮うことは出来ないのではないか」
「それは私がなんとかしますのでどうか弥勒を置いてやってもらえませんか」
「わしとしては嬉しいことはあっても困ることは何もない。こちらからおねがいしたいぐらいじゃよ」
不空はひとりで山を下って行った。師匠の背中は心なしか小さく見えた。弥勒は師匠の後ろ姿が谷間に消え見えなくなるまで見送った。
弥勒は文殊にもこの地に残り龍穴社で働きながら
仏と普賢の供養を続けていくことを話した。
文殊は驚いたようであったがすぐに安堵の表情を見せた。
「わしも不動殿が許してくれればここに戻ろうかとも考えていたのだが、お前がそう言ってくれるのなら何も言うことは無い」
「驚くことばかりなので気が付かなかった。
普賢の命日と薬師如来像の開眼供養は同じ日だったよ。ここまで重なるともう驚かなくなったがね」
「この日には毎年来ることにするからお前も達者で暮らしてくれ」
「兄上も道中くれぐれも気を付けてお帰り下さい」
文殊もまたひとりで山を下って行った。

山では紅葉が始まり秋も一段と深まってきた。
見上げれば高い秋空にいわし雲の群れが流れて行く。
弥勒が室生の里にきて一年近くが経とうとしていた。
弥勒には薬師如来像を護り普賢の供養を続けたいと言う気持ちもさることながら、この室生の里が何か生まれ故郷のように思えてきていた。
室生の里での生活に比べれば京での暮らしは何と憂鬱だったことか。
ここに来てはじめて自分自身で考え決めると言う当たり前の事が出来るようになったと感じていた。

この後、弥勒は不動のもとで神官の修養を積みながら、京の不空からの依頼にも応えて仏像を彫り続けた。
やがて不動も他界し宮司となった弥勒であったが変わることなく仏を護り、普賢の菩提を弔い、もくもくと仏像を彫り続け長い時が過ぎて行った。
ついぞ弥勒の手でこの薬師如来像に匹敵するような仏像が彫られることは無かった。
それは弥勒にとっては分かりきった事だったのかもしれない。

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