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ワンチャン大学生が増えた理由を考察

2001年、W大学のイベントサークルで、「スーパーフリー事件」という事件が起きた。大学のサークル活動において、主に女性に対してお酒を飲ませ、泥酔させたうえで輪姦するという悪質な事件である。

2019年、K大学の学生ら2人は、女性に酒に酔わせてわいせつ行為に及んだ挙句に財布を盗み、逮捕されるという事件が起きた。

若者に限らず、時代を問わずこうした悲惨な事件というのは日々発生している。しかしながら、上の事件については「大学生が」「複数人で」「女性を対象として」行なった事件という点において共通点がある。立場の弱い女性に対して、泥酔させて犯行に及ぶというのは言語道断であるし、それを比較的に高学歴とされている「W大学」や「K大学」の学生らが行なったというのも衝撃的である。

ここではなぜ、高学歴の学生たちのモラルが低下しているのか、簡単かつ独断的に解説してみようと思う。


考察1:景気悪化に伴う経済合理化によるもの

昨今の景気はよくない。日本においても、「失われた20年」などと呼ばれるいま、学生たちの意識が以前とは変化しているのだろう。

景気が良くないということは企業における意識がまずは変わる。総需要が低下しているデフレ化にある日本では、大企業が収益を上げるためには合理化を進めていく必要がある。たとえば、配送コストの削減や人件費の削減、外部委託化である。それぞれ、3PL・BPO・フリーランス化などと呼ばれていることである。これらは聞こえはいいが、「経費削減」のためであることは留意するべきである。経費削減の何がいけないか、ということであるが、これは「品質低下」といえばわかりやすい。つまり、「安くなった分、どこかの品質が低下する」ことを意味する。例えば配送コストの削減においては、最近流行っているウーバーイーツで説明しよう。ウーバーイーツの配達員はそれぞれ「個人事業主」という形態をとる。これは、大雑把に言えば会社ということだ。つまり、配達員のそれぞれは運送業務委託契約としてウーバーと契約し、配達業務の完成と引き換えに委託費用を支払ってもらうという仕組みである。アルバイト・パートなどと何が違うのか、ということだが、雇用されているわけではないので立場が弱いということや、配送責任をすべて負うこと、消費税等の納税義務を負うことなど、かなりの責任がつきまとうことを大多数の本人が自覚していない点は問題である。本人が自覚していないということは、それぞれの責任に対するコストが軽視され、実質的な賃金は低下する。(例えば1日1万円、という仕事をX社からA社が請負い、右脳くんがバイトをしたとする。このときのバイト料は8000円だとすると、差額分の2000円はA社が責任に対するコスト・及び利益として受け取ることになる。しかし、このときX社が右脳くんと直接業務委託契約を結び、8000円で依頼をしたらどうなるだろうか。もし右脳くんが契約内容について無自覚であれば、直接契約ができたからラッキーとさえ思って終了してしまうかもしれない。しかし、その8000円には納税義務や労働基準法の適用のコストが含まれているから、実際には損をしていて、X社だけが得をしているのである)

デフレ下において収益を上げる、ということは何かを削減するということであり、それには品質の低下が伴うのである。皆さんもコンビニで買い物をしたとき、コンビニ弁当が底上げされている「ステルス値上げ」を体験したことはないだろうか。こうしたことが間接的に、わかりにくいかたちで行われているのが現代だと私は認識している。

さて、経費を削減するためにはどのような能力が必要かと言えば、よりシステマティックに組織を運用していくことである。​会社では、一人の人がより多くの人を統率するためにコミュニケーション能力を求めるし、より分かりやすく「数字」を上げる人は、よく目立つために評価されやすくなる。物事の本質というのはいつも静かで、わかりにくいものであると私は考えているが、それをある意味で犠牲にすることで、経費削減が成立しているのである。だから大学という組織においても、「留学をした」とか「インターンに行った」とか、「TOEICのスコア〇〇」というようなことが評価されやすくなるのだろう。もちろん、留学もインターンもTOEICもそれぞれ大切だと思うが、これらはある程度お金があれば誰でも経験・取得できることである。だから、これらの経験によって人を判断し、採用してしまう大企業が存在しているという環境自体も問題なのだ。

つまり、本考察の結論としては、「デフレ化において組織が本質を軽視することでより明確でわかりやすいもの・指標を求めるようになった結果、大学内に質の悪い学生(モラルの低い学生)が溢れるようになったのだろう。」ということになる。


考察2:大学が増えすぎたから

上のような記事は、Googleで検索するとすぐ見つかる。つまり、大学の数と学生数は以前と比べてかなり増えているということがわかる。しかし、この間は少子化で子供の数は減っているのである。だから、全体としてみると「学生になる人の割合が増えた」といえるのだ。学生の数が表面上増えたとしても、能力の高い学生が増えたということではない。従って、ワンチャン大学生が間接的に増えたということが推察される。

大学側(特に私立大学)としては、より多くの学生を招き入れたいという意志がある。だから、学力試験で一定以上の成績を収めていればできるだけ入学させたいということになる。すると、表面上の試験の点数などの数字がより意味をもつようになり、入学後は学費を支払ってもらうために学生を甘やかす(楽に単位を取らせる)ことになりかねない。

これに対しては、国が早期に対策を打つ必要があると思う。つまり、Fランなどの大学に対して本気で存在意義を問い、大学の統廃合を進めるべきと考える。大学を就職予備校のように位置づけられている現在の状況下において、有能な人間が育つはずがない。確かに、「貧困に苦しむ学生に支援を」というのは理にかなっているとは思うが、それは支援を受ける学生が優秀だった場合の話ではないだろうか。ろくに研究もせず、毎晩遊び呆けている学生に対して血税を使うというのは、ちょっとどうかと思う。


まとめ

以上2点を考察してみたが、こうして考えると、ワンチャン大学生の存在は社会構造がもたらした負の側面といえるだろう。特に、考察1で述べたように長引く不況・デフレが影響しているのだとすれば、それは経済状況のせいということもできるし、考察2のように大学数が増えたのだとすれば、それは大学を増やしてしまった国の政策に問題があるのだろう。

例えば米国の場合、大学を卒業していることは日本以上に意味をもつとされている。それは、米国が格差社会・個人主義社会だからである。つまり、目の前の相手が激ヤバな人かもしれないから、目に見えて安心できる材料が欲しい、ということである。それもそうだ。個人主義とは、自由なように見えて責任が伴うこということだ。(考察1の内容)だから、私はこの考察を通して、個人主義の恐ろしさを問いたい。戦後の高度経済成長期の後は急速に日本で核家族化が進み、社会の最小構成単位が小さくなってしまった。それに追随するように、米国の自由主義・個人主義が日本にもたらされた。「自分のケツは自分で拭く」ということでもあるが、それは見守ってくれる人がいない寂しい社会ともいえる。これからは、本当の意味での格差社会が訪れるかもしれない。つまり、金銭的な意味での格差と、知識などの社会的な格差である。それぞれが満足しているならいいじゃないか、ということもいえるだろうが、本当にそれでいいのだろうか?何か大切なものを犠牲にしていないだろうか?とにかく、これからの格差社会に勝つためには、自分で考えて、自分で付加価値をつけられる人間にならなくてはいけない。

スーパーフリー(超自由)な世の中が、スーパーフリー事件を引き起こしたのである。

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