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本質主義と科学の歴史 —論理的であるべき理由は?— #212

現代に生きる私たちは、「科学的ではない」とか「論理的ではない」という言葉を「正しくない」と同じ意味で使います。しかし、そもそも科学的・論理的なものが正しいのはなぜなのでしょうか?

こうした疑問に答える一つの説明として、「私たちは本質主義を採用しているから」という視点をご紹介します。現代社会の常識を理解するには、本質主義が中心にあると捉えると整理できます。

本質主義とは?

ここでの本質主義とは、「全ての物には、目に見えない『本質』なるものが存在している」とする考え方と定義します。本質主義といえば、古代ギリシャのプラトンが唱えたイデア論が有名ですね。

「全てに本質がある」と考えると、全世界の本質を体現する唯一の神が存在すること、人間の本質である魂(意識)が存在すること、物質の本質である原子が存在することなどの考え方につながります。また、これらの本質を理解できる能力が理性であり、理性は本質を捉えるために言語を使うと考えます。ちなみに、ギリシャ語のロゴス(英語のLogicの語源)は、理性と言語の両方の意味があります。

このように、「人間には理性と言語能力が備わっており、理性と言語を最大限に活用すればこの世界の本質が理解できる」と考えるのが本質主義の基本的な考え方です。


科学は本質主義に基づいている

そもそも「本質」とは何でしょうか? ここでは、「本質とは、それが他とは違うものであることを理由付ける不変的な特性」と定義します。つまり、ある存在AがAであって非Aでないこと、かつAであり続ける(非Aにならない)ことを証明する特性を本質と考えます。

この世の全てに本質があるとすれば、物を細かく分けていけばその本質を体現する存在にまで分割できると考えられます。化学で全ての物質が原子から成り立っていると考えるのも、これ以上分けられない微小な物に本質が宿っているという仮説に基づいています。「分割すれば本質が明らかになる」というこの考え方は還元主義とも言います。

さらに、再現性を重視する考え方も本質主義から導き出せます。たとえば、本質主義では「Aという本質(水)を備えていれば、Bという現象(100℃で沸騰)が生じる」と説明します。すると、本質があると仮定すれば因果関係の存在も導けることになります。逆に言えば、再現性が確認できればその研究対象の本質が明らかになったとみなせるのです。

このように本質主義というキーワードから、還元主義や再現性などを科学が重視する理由がわかると思います。ここまでの考え方に違和感がないということは、本質主義が現代の常識となっているということ。「言語化して論理的に説明しなければならない」や「再現性がある方法を提示するべき」などの絶対的に正しく思える命題も、本質主義を前提とした場合に限って正しいということになります。


神の時代から理性の時代へ

では、本質主義が現代の常識となった理由を歴史的な視点から見てみましょう。

古代ギリシャ期 —哲学と科学の種が植えられた時代—

始まりは古代ギリシャ。この頃は各コミュニティ(ポリス)ごとにそれぞれ土着の神話を信じている時代でした。しかし、各コミュニティ同士の交流が盛んになってくると、「私たちと君たちの神話って違わない?」という衝突が起こりました。

すると、「もしかしたら神話が間違っていて、どのコミュニティでも通用するような共通の世界認識があるのではないか?」という仮説が生まれ、ありのままの世界を観察する動きが始まりました。この考え方をもとに世界を理解しようとした代表者が、万学の祖と呼ばれるアリストテレスです。彼の異名のとおり、彼が積み上げた思想は哲学や科学の基礎となりました。


キリスト教期 —聖書とアリストテレスが絶対!—

次の時代に主流となったのが、「聖書に書いてある説明こそが真理である」というキリスト教による世界の説明です。キリスト教は当時ヨーロッパ地域で支配的な国であったローマ帝国が国教に認めたことから、ヨーロッパ全土に広まりました。

キリスト教が人間の知恵の中心だった中世において、神学やスコラ哲学が代表的な学問でした。今の科学のような実験と観察を中心としたものではなく、キリスト教や聖書が正しいことを説明するという目的がメインでした。スコラ哲学はアリストテレスの思想も実は引き継いでいたようで、「聖書によると」とか「アリストテレスによると」と言えば、誰もが納得する時代でした。

ちなみに、アリストテレスが偉大すぎたので、彼が言ったことは何でも正しいと思われていました。たとえば、彼は「重い物ほど速く落ちる」と言っていたので、これがずっと正しいと思われていました。この命題が実証試験によって覆されるのは、ルネサンス期のガリレオ・ガリレイなどの登場を待たなければなりません。


脱キリスト教期 —人間の理性を頼りに—

聖書とアリストテレスの時代だった中世に引導を渡したのが、14~16世紀頃にイタリアを中心に始まったルネサンスでした。ちなみに、ルネサンスとは再生や復活を意味するフランス語です。この意味のとおり、この頃は古代ギリシャ・ローマ時代の文化の再生・復活を目指しており、当時の知識が保存されていたイスラム文化をヨーロッパに逆輸入することが流行しました。

ルネサンス以降の近世は、デカルトの「我思う、故に我あり」という方法論的懐疑が科学の中心にあると考えると分かりやすくなります。神が人間に授けてくれた理性を最大限に使えば世界の真理を解明できる、ひいては神の存在さえも証明できるという仮説のもとに科学が発展していきました。そして、この時期に起きた大きな転換は、天動説から地動説、創造論から進化論の二つでした。

天動説から地動説への転換のきっかけになったのが大航海時代です。ヨーロッパの人々が船で遠くに移動するようになると、大きく2つの問題に直面しました。1つ目は聖書や教会が唱えている世界地図とは違う土地の存在、2つ目は天動説に基づいて航路を計算した際の誤差の大きさでした。この2つの問題を解決したのが、地球は球体で太陽を周回していると考える地動説だったのです。

もう一つの重大事件はダーウィンによる進化論です。当時は全ての生物には神が宿した本質があるため、不変的であると思われていました。しかし、地質学の発達や絶滅した古代生物の化石の発見などにより、生物の不変性が疑われ始めました。こうした中、ダーウィンはガラパゴス諸島でのフィールドワークでの観察などに基づいて、生物が自然淘汰によって少しずつ変化(進化)しているという仮説を導きました。

注意しておきたいのは、当時の科学者たちはキリスト教や神の存在を否定するために研究をしていたのではないということです、むしろ神の存在を信じていたと言えるでしょう。デカルトの「我思う、故に我あり」も神が人間に理性を与えたことを前提としていたり、地動説に基づく星の運行周期の計算の方が容易で神の作った世界の美しさにふさわしいという理由があったりと、まだまだキリスト教の影響力は大きかったことがうかがえます。

とはいえ、地動説により地球は宇宙の中心から降ろされ、進化論により人類は生物の中心から降ろされました。こうして、人間という存在は神から作られた特別な存在であるというアイデンティティを少しずつ失っていったのです。


現代 —脳という名のパンドラの箱—

言語と理性の力を頼りに科学を発展させてきた人類ですが、現代はこれらの信頼が崩れ始めているのかもしれません。

ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と述べて言語の限界を指摘しました。構造主義の祖とも言われるソシュールは「言語名称目録観」を否定し、言語が本質を表すという前提を覆しました

また、フロイトは無意識を「発見」して理性を司る意識以外の存在を明らかにしました。その後、脳科学の発展により無意識の存在は科学的にも認められるようになりました。さらには「心のモジュール仮説」や「意識の報道官仮説」など、「意識は理性を働かせる本質がある」という考え自体が疑われるようになっています。

このように、人文科学と自然科学の発展によって、科学や社会制度が前提としてきた言葉や理性が絶対ではないという結論にたどり着きつつあるのです。本質主義は真理などではなく、人間の思考の公理(OS=Operating System)の一つにすぎないということが明らかになってきたとも言えそうです。


まとめ

本質主義に基づく現代科学の当初の動機は、神が人間に授けたとされる理性を駆使して世界を解明し、いずれは神の存在を証明したいというものでした。それが科学の発展に伴って、次第に理性そのものを疑うようになるのですから皮肉なものです。

また、常識が疑われるきっかけは外部との交流であるという点も興味深いと思います。自分が当たり前と思っていることが実は当たり前ではないと気づくためには、他者との出会いが必要なのですね。

次回は、脳科学が意識についてどんなことを解き明かしているのかについて詳しく見ていく予定です。お楽しみに。

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