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「合う場所探し」に依存しない

大学を中退後、地元の眼科に勤めようとしたことがある。

「ようとした」からわかるように、結果的にわたしはここで働くことはなかった。2週間設けられていた研修期間で、女社会の悪い面をぶちこんだような人間関係に参ってしまったからだ。

雇用主である院長は正式雇用してくれるつもりだったらしいのだけれど、「ごめんなさい」と断った。食べているのに体重が減ってゆき、2週間で5kg以上激減しまったことも、「あ、無理」と思った理由だった。


大学を中退したうえ、決まる寸前だった仕事を辞退した娘。わたし自身よりも母がダメージを受けていた。「こんな風に育てたはずでは」と思っていたのかどうかは知らない。だけど、気落ちして鬱々していて、さらに憤りも感じているようだった母に、わたしは何も話せなくなった。

逃げてばかりのダメ人間だと、自分を責めた。だけど、責めてもつらいのは変わらず、むしろ悪化する。悪循環だった。

幼い頃から、どちらかというと「できる」とされることが多く、それにも関わらず本当は大してできない人間だと思っていた。周囲の評価と現実とにギャップがあり、それが良くも悪くも思考に影響を与えていた。

それまでは何とか踏ん張ってきたけれど、「ダメだった」が2度続いたことも、悪化につながったのだろう。「ほら、ボロが出た。やっぱりできないんだよ」と。

その前に勤めていたバイト先の環境が良かったことも、「人間関係で正社員になれそうなところから逃げるなんて、やっぱり社会人になれない人間なんだ」と思う一因だった。(父に「社会人に向いてない」とさんざん言われ育っている)


その後、2ヶ月ほどをニートとして過ごし、フルタイムバイトを始める。好きなインテリアや雑貨に触れられる仕事で、人間関係も良好だった。

わたし以外社員という珍しい環境で、わたしは店長に「これは卯岡さんにやってほしい」と担当を任される。社員・バイトという区分ではなく、「こういうことを1番几帳面にこなせるタイプだから」と適性を見て決めてくれたそうだった。

このバイトで、わたしは少し自信を取り戻せたように思う。そして、「場によって全然違うものなんだな」と思った。「職場によい人間関係を求めるのは、甘えではなかったのかな」とも。

そこから、わたしには「人間関係さえよければ、仕事の大変さは乗り越えられる」という軸ができた。

ただ、人間関係にも、過度なよさは求めていない。ここは、入ってみてフィーリングでOKかどうかを判断するしかないのだけれど。仕事は学び実践することで何とかしていけるけれど、極端な人間関係はどうにも耐えられないタイプなのだ。

なお、「仕事上の人間関係なんかどんなものでも割り切れるじゃん。仕事の負荷の方が重要だなあ」という友人に出会い、「重要事項は人それぞれなんだなあ」と身をもって知った。


転職が語られるとき、「あなたに向いている場所がある」という言葉を多く見聞きする。この言葉は半分正解で、半分危ういものだと思っている。

何らかしらのスキルや経験、職に適した性質や意識を持っている人であれば、「合う場所を」と探す意味はあるだろう。ただ、すべての責任を自分以外のものに転嫁して、「合う場所があるはずだ」は無理ゲーに近い。

「ここだけは無理」をはっきりさせて、そのほかは対応できる、努力できることが大切だろうなあと思う。「この程度なら受容できる」のも向き不向きのひとつだろう。全部が自分にぴったりこなければ無理、ぴったりくる場所がどこかにあるはずだ、は危険だ。何もその会社のためでなくとも、成長意欲は必要なのだから。

恋愛・結婚をイメージすればわかりやすい。「そのままのわたしをすべて受け入れ続けてくれる人で、かつ収入もルックスも性格もマッチする人がいい」は、「自分は相手に何をできるのか」が抜け落ちてしまっている。よほど絶世の美女でもない限り、うまくいく可能性は低いだろう。

仕事もそれと同じで、「与えてね」スタンスだけの人が「合うところを」と求めてしまうのは、ちょっと怖いなと思う。主体性に欠けているというか、どこかにあるはずの場所に依存してしまっているというか。いっそ自分で合う場所を作った方がよいのでは、とも思う。(それも簡単ではないことはわかったうえで)


「どうやら自分はここがダメらしい」と気づくこと、そして「ここは自分で改善できる。ここはある程度受容できる。でもここだけは折れられない」と精査していくことが大切で、闇雲に「合うところ」と渡り歩いていればいいわけではないと、わたしは思う。そして、考え模索しながらの行動は、きっと「逃げ」とは違うものだ。

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