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【私の読書記録】#1 乳と卵/川上未映子

 わたしとその姉である巻子と巻子の娘の緑子。この三人が暑くて静かな三日間の夏を過ごす。豊胸手術をしたいということで、巻子緑子を連れて東京に住む私のもとにやって来る。
 しかしながら、巻子緑子の関係性はどうやら良いとは言えそうになく、理由は分からないが巻子が話しかけてもわたしが話しかけても、緑子はノートに文字を書くことでしか会話をしてくれない。それを不思議に思いながらも、三人の時間は流れていく。

 読み進めていくと、緑子は女そのものについてや子どもを産むということ、自分が生まれたことについての疑問と、嫌悪感を抱いていることがわかる。そのことがわかりやすく描写されている部分を紹介したい。

だいたい本に書いてある生理はなんかいい感じに書かれすぎているような気がします。これはこれを読んだ人に、こう思いなさいよってことのような気がする。

お母さんを見てたら、毎日を働きまくっても毎日しんどく、なんで、と思ってまう、これいっこだけでもういっぱいやのに、その中からまた別の体を出すとか、そんなこと、想像もできんし、そういうことがみんなほんまに素晴らしくてすてきなことって自分で考えてちゃんとそう思うのですかね。

 女であること、子どもを産むということ、生きるということ、そのすべてにおいて母の存在しか知らない緑子は、しんどそうに生きている母親、その母親によって産まれた自分、自ら望んで生まれてきたわけではない自分が生きていくこと、その何もかもが不安で厭で仕方ないようだった。子どもを産むことができるのは身体構造的に女だけであり、子どもを産む準備が生理であり、生理がくるということは結局のところ自分の意志でもなんでもなく子どもを産む体に作り変えられているということ。

 そんな緑子と対照的に描かれている巻子。ふっくらとしたやわらかな胸は女性的だと感じる人も多いのではないだろうか。大きく美しい胸を手に入れ、女としての歓びや自信を得たい巻子は豊胸手術を受けることに大きく心を揺さぶられている。対照的に描かれている二人だが、自分のあり方について考えているという点については共通しているのではないかと思う。自分の中で結論が出ている以上、二人が本当の意味でわかり合える日は来ないのかもしれない。

 最後になるが、わたしの話を少ししようと思う。本作品のラストシーンで、わたしはお風呂場の鏡で全身を見て、こんなことを思う。

夕方の光と蛍光灯の光が小さく交錯する湯気のなか、どこから来てどこに行くのかわからぬこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、切り取られた鏡のなかで、ぼんやりといつまでも浮かんでいるようだった。


 悪い言い方をするとすれば、終始「傍観者」だったわたしもまた、巻子緑子の対照となっているように感じた。
 【わたし⇔巻子・緑子】と表すとわかりやすいだろうか。
 自分のあり方を、その見つめ方は違えどきちんと考えた二人と、二人のことに関しても自分自身のことに関しても、ぼんやりとしか見ていないわたしの虚しさに似た空白の時間がそのお風呂場で流れたように思う。


 難しいな~と思いながら読みつつ、どちらかというと緑子の気持ちがわかってしまう自分がいて。
 この作品に出会うまでも実は同じようなことを考えていました。
 女としての構造や仕組みを持つこと、子どもを産むことは果たして全員にとって美徳なのか…?と。そんなことを考えながらふと出会ったこの本に、私が考えていたことも含めて優しく包みこんでもらえたような気がします。

 それでは今回はこの辺で失礼します。最後までお付き合いいただきありがとうございました。次に投稿するのはいつになるかわかりませんが、また会いに来ていただけると嬉しいです(^^)

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