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おもいでぽろぽろ⑦YouTubeと童謡[母が認知症になりました。]

(この写真はあの有名な「ハナミズキ」)

「弟一家が温泉旅行に言っている間、母さんと二人っきりで過ごしてほしい」

これが弟からの依頼だった。非常に珍しいことだ。

普段は東京で一人暮らしをしていて「あまり帰省したがらない姉」(=私)も、滅多にないお役に立てる(かもしれない)案件にのってみたワケだ。

父の葬儀が2020年1月。
父の三回忌が2022年1月。
そして今回(2022年12月31日の大晦日)。
前回帰省して以来だから約一年ぶりか。そんなに経ってないや。

逆に言うと、父が亡くなって、母が認知症を発症するまで2〜3年。あっという間だった。父の、長女の私に対する扱いはひどいものだったが、父と母はとても仲が良かった。

父は、祖母の大反対を押し切り、母を北海道根室の花咲港から富山県魚津港まで漁船に乗せて連れてきてしまった。それから60余年。

認知症になった母は、亡くなった父のことを「あの人」と呼んだ。
「やさしい人」と言った。

「お父さんって呼んでいたのに、なんか他人行儀な感じ」
でも、イヤな感じは微塵もない。もう亡くなったことも理解している。

多分、彼女は今、北海道根室のお店に住み込みで働いていた25歳の母なのかもしれない。当時、毎日お店にやって来る「鮭鱒船団」(富山からの北洋漁業)の3歳年上の漁師・魚住さんを知人から紹介され、ちょっと意識している最中なのかもしれない。

母は、昔話をする人ではなかった。もっと、しつこく聞き出せば良かったと後悔している。

ただ、聞いても田舎の年寄りは説明が下手で何を言っているか理解できないことが多くて、時系列がめちゃくちゃなのだ。そして、いつも「何故そんな役にも立たないことを聞くんだ!」「聞いてどうするんだ!」と面倒臭くなって怒り出す始末なので、話が途切れ途切れで中途半端になってしまう。

田舎の年寄り(昭和ひと桁〜10年生まれ)に話を聞く歴史・文化研究者は辛抱強くなくてはならない。語り部レベルの年寄りなんて稀なのだ。

だから、私が知っている母の北海道時代の昔話は長年かけて話を聞いてパズルを当てはめるようなものだった。

もう母とちゃんと会話することはできなくなってしまった。
母の昔話も聞き出すことは不可能になってしまった。

母は今、帰省した私の顔を見ると5分おきに「あれ? あんた、いつ来たん?」と繰り返す。
最初のうちはイチイチ返事をしていたが、どんどん面倒臭くなって生返事になってくる。イヤな娘だ。おまけに「自己嫌悪」がコブのように私の頭にくっついた。

大晦日から元旦にかけての夜はもっと最悪だった。
元々、ひどい不眠症の私は寝場所が変わるだけでもうダメだ。
寝場所は現在、母のベッドの横で、亡くなった父が使っていたベッドだ。
そのうえ、「ようやく眠れるかも!」という寝入りばなに「あんた、眠れんがけ?」と母が聞いてくる。これが15分おき、30分おき、一晩中だ。

眠れない人が「眠れないのか」と話しかけられたらますます眠れなくなるのをわからないのだ。ちょっと寝返りを打っただけでずっと話しかけてくる。
お母さんも眠れてないじゃん。
でも、答えてはいけない。答えたらもっと眠れなくなるから!

最悪の元日だ。寝不足もいいとこである。
でも、今日はちょっとやりたいことがある。

「母と一緒に!」と決めてきたことがある。
そのために、普段使っているauのルーターをオフにして、レンタルWi-Fi屋さんで強力なSoftBankのルーターを借りてきたのだ。この家はauの電波が飛んでいないからね。

私にいつも仕事をくれる会社の部長さんから「YouTubeで『高齢者 童謡』で検索して、童謡を一緒に歌うといいよ。認知症には童謡がいいみたいだから」というアドバイスをもらっていた。

ついに、今回の一番の目的を果たす時が来た!
昼過ぎには弟一家は温泉旅行に出かけてしまった。
誰かいたら恥ずかしいが、母と二人っきりじゃあないか!
誰も見ていないのともう同じことだ。

思えば、童謡を卒業すべき中学生・高校生の頃も童謡が好きだった。
童謡には時代背景や思想がにじみ出ている。研究対象としても興味深いではないか。

そんな童謡を、母の世代だとおぼえているものだろうか? 歌ってくれるのかな?

iPhoneを横に立てて、YouTubeで「高齢者 童謡」を検索してみたらある!ある! 老人ホームやデイサービスで童謡を歌う高齢者の映像を見たことがあるが、やっぱり利用している人が多いんだ! 昔は「年寄りを子ども扱いして童謡を歌わせてイヤだな」なんて勝手に思い込んでいたが、「子どもに還っていくのだから全然悪いことではない」のよね。それに、お年寄り本人が好きで歌っているのならかえって良いことではないか。

『懐かしの童謡・唱歌メドレー【全38曲69分】』
🌸春の童謡・唱歌🌸春の小川/花/早春賦(そうしゅんふ)/朧月夜(おぼろづきよ)/どこかで春が/春が来た/ちょうちょ/せいくらべ/五月の歌🌻夏の童謡・唱歌🌻われは海の子/野ばら/茶摘み/浜辺の歌/この道/すかんぽの咲く頃/牧場の朝/夏は来ぬ/花火/ほたるこい/金魚の昼寝/七夕さま🍂秋の童謡・唱歌🍂故郷の空/旅愁/荒城の月/夕焼け小焼け/赤とんぼ/紅葉(もみじ)/夕焼雲/うさぎうさぎ/とんび/故郷(ふるさと)/村祭り⛄冬の童謡・唱歌⛄雪/りんごのひとりごと/ジングルベル/ペチカ/まめまき/おおさむこさむ

動画を再生すると、伴奏とともに歌が流れる。その歌に合わせて、私がまず歌い出す。すると母はすぐに反応して大きな声で童謡を歌い出した。
音程もしっかりしているし、メロディーは全然忘れてはいない。

それどころか、童謡の歌詞の細部にわたって、すべて憶えているのだ。
有名な童謡でも、2番、3番の歌詞はなかなかすぐには出ないものだが、母は私よりも歌詞をハッキリとすべて憶えていた。
ビックリした! うろ覚えがまったくない!
私の方がうろ覚えの箇所が山ほどある!

認知症は最近のことから忘れていくというか記憶が定着しない。
幼い頃に憶えた古い記憶の方が鮮明に残っている不思議。

北海道の山奥にあった母の実家は貧乏牧場であった。
母は10人きょうだいの末っ子。ずっと働きづめだった。
小学校までは片道2時間歩いて通った。隣の家までは1時間かかる。
冬は登校時はスキーで滑っていつもよりずっと早く着くが、下校時はスキーを抱えて山を登らなければならない。
「自然に足腰が鍛えられる」とその昔、母は笑った。

そんな極寒の地で、童謡をきょうだいたちと大きなストーブの前で歌ったのか。それとも、小学校で歌ったのか。はたまた、歩いて1時間かかる隣の家の幼なじみと一緒に歌ったのか……。
娯楽のない山奥で、母にとって童謡を歌うことが娯楽だったのかもしれない。

今、目の前で、認知症の母は楽しそうに「春が来た」を歌っている。

北海道の遅い春を、心待ちにしていた春を、まだ雪が残る山を見ながら少女は歌う。

……この日の夜、認知症の母も不眠症の私もぐっすりと眠れた。

* * * * * * * * * *

さて、本日は終戦記念日。

1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終わった。
当時の母は多分、その日に知ったわけではないだろう。

当時、13歳だった熱血少年の父は、敗戦を知り、泣いて悔しがったそうだ。
この時代の1歳、2歳の差というのは意外と大きく、後々そのことに意味が出てくる。

10歳だったまだ幼い母は、北海道の山奥で敗戦を知り、父の反応とは真逆で、「これでご飯が食べられる!」と喜んだという。
しかし、白いご飯が食べられるようになるまで、まだまだ時間がかかったようだ。

そして、その頃にはすでに母の両親ともに働き過ぎと寒さが原因で亡くなっていた。

また、更にさかのぼって……
明治40年頃、福岡県赤村から北海道の山奥に、農家の若者が二人、騙されて連れてこられた。
若者は20歳ぐらいで新婚の男女。草木も生えない蝦夷地の山奥の荒野に置いていかれた。
なけなしのお金で10日間以上かけてここまで来た。
もう無一文。もう帰れない。
政府の男は、「立派な男爵いもが採れ放題」「この世の楽園が待ってる」と言った。
ここには家も車も食べ物も畑仕事の道具も何もない。
荒れ果てた極寒の大地に、ぽつんと二人だけ。
二人だけの闘いが始まる。

これは決して、北海道開拓史には載らない1ページ。

私の会ったことのない祖父母……母の両親の北海道開拓の物語なのだ。

(祖父母の北海道開拓の物語はまたいつか!いとこ達と調査してからにします)

母が認知症になりました。離れて暮らしているので、介護を任せている後ろめたさが常にあります。心配、驚き、寂しさ、悲しさ、後悔、後ろめたさ。決断と感謝と孤独。感情的にならずに淡々と書きますが、時々泣きます(笑)。一人暮らし還暦クリエイターによる☞脱力記録です。不定期で綴っていきます。


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