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『インセプション』との2度の出会い

クリストファー・ノーランの作品に初めて出会ったのは、『インセプション』が公開された2010年のことだった。当時9歳だった私は、いつものように映画好きの母に連れられて行きつけ(というより選択肢がそこしかない)の映画館でこの作品を鑑賞した。昔から映画好きだった家族は、今はその存在感もサブスクの影に隠れつつある「スターチャンネル」にチャンネルを合わせ、ジャンルを問わず家でよく映画を観ていた。その横で一人遊びに耽っていた当時の私は、遊びながらなんとなく映画を眺めていたり、目もくらむようなアクションシーンでは視線が釘付けになっていたりしていたのを微かに覚えている。もちろん家で家族と一緒に映画を観ることもよくあったし、いつからかは定かではないが、かなりの頻度で母は私を映画館に連れて行ってくれた。鑑賞後には、作品が面白かったか、そうでなかったかには関係なく、売店でその作品のパンフレットを買うのがお決まりだった。この習慣は今でも続けていて、家の本棚にはあらゆるジャンルの映画のパンフレットがぎっしりと詰まっている。

 『インセプション』公開当時のことに話を戻す。先にも書いたが、当時9歳の私がこの映画を自発的に『観たい』と言ったのか、それとも洋画好きの母についていっただけのことなのかははっきりと覚えていない。それどころか、当時鑑賞していた時の光景や、鑑賞後自分の中でどう作品を消化したのかの記憶すらも定かではない。ただはっきりと言えるのは、「とんでもない映画を観た」という印象がぼんやりと心に刻み込まれたことと、この作品が「記憶にある限りで最古の、初めて劇場で観た”洋画”」であるということだけだった。当時『インセプション』を劇場で観た体験は、まだこの時点では自らの映画に対する向き合い方を劇的に変化させるものとはならなかった。恐らく当時の自分にとっては、『インセプション』も『シュレック』も『名探偵コナン』も、どれも同じ「映画」という範疇に収めていたに違いない。

 それからも人並みよりは少し多い程度に映画を観る生活は続いていた。中学3年生の時には『007 スペクター』と『スターウォーズ フォースの覚醒』が公開され、高校受験の勉強の息抜きに観に行ったことはよく覚えている。高校生になってから間も無く公開された『君の名は。』や『シン・ゴジラ』は友人と学校帰りに観に行き、帰りの電車で作品について話し込んでいたのも良い思い出だ。しかし勉強が忙しくなるにつれ、劇場で映画を観る機会はめっきり少なくなってしまい、レンタルビデオ店で気になった作品をたまに鑑賞する程度になっていった。高校3年生、受験勉強も本格化してきて忙殺されていたある日、勉強の息抜きに久しぶりにレンタルビデオ店を訪れ、なんとなくアクション映画のコーナーを眺めていたところ、ふと『インセプション』と書かれた赤字のタイトルが目に留まった。幼い頃に観に行ったという朧げな記憶はあったものの、内容については「他人と夢を共有する」程度にしか覚えていなかったため、観直してみようということで7泊8日のレンタル(この響きすら既に懐かしい)、105円を支払い家路についた。

 鑑賞後、本当に文字通り呆気に取られていた。月並みな表現かもしれないが衝撃の体験だった。夢から覚める時のあの”落ちる感覚”を「キック」として見事に映像で表現した発想力。『マトリックス』のように現実離れしたものではなく、我々が普段見るような「いつからが夢かわからない」という夢の特徴を見事に捉え、現実味を持たせつつもどこか掴みどころのない夢を描いた説得力。映像と見事に調和した劇伴も含め、画面から伝わる全てが全身を震わせた。今まで観てきたどんな映画とも違う。「とんでもない映画を観た」。9歳で最初に鑑賞した時のぼんやりとした感覚が、ようやく自分の中に根を下ろした瞬間だった。映画のラストで流れるハンス・ジマーの印象的な劇伴 ”Time” は、とても懐かしい気持ちにさせてくれる音楽だった。もしかすると初めて鑑賞した時の記憶が、潜在意識として自分の心の奥深くで眠っていたのかもしれない。どんなに幼くとも、さすがに映画のラストくらいは集中して観ているはずである。

 一体誰がこんな映画を作ったのか。監督の名はクリストファー・ノーラン。適切な語彙を持ち合わせていない当時の自分にとっては(今もだが)、「天才」としか表現のしようがなかった。その後もそこそこの数の映画を観てきたが、ノーラン監督の作品はどれも何度も観直している。何度も観返すに値するほどの、人間の根源・普遍的なテーマが作品の根底に流れているからかもしれない。『インセプション』とクリストファー・ノーランという存在は、これまでただ映像と音とストーリーを享受するだけだった映画の見方を、「作品についてもっと深く知りたい」「隠されたテーマやモチーフは何か?」「自分はこの映画から何を得られるのか?」といった能動的な見方に変えてくれた。そんな見方をするうちに、映画を支える監督以外の存在も大きいことにも気付かされた。例えば『インセプション』は監督・脚本ともにクリストファー・ノーランが務めているが、『インターステラー』『ダークナイト』『プレステージ』の脚本には弟のジョナサン・ノーランが名を連ねている。撮影監督は『ダークナイト ライジング』まではウォーリー・フィスターが、以降の作品ではホイテ・ヴァン・ホイテマがその役を担っている。その他のスタッフも挙げればキリがないが、彼ら全員の手があってこそ、「ノーラン作品」はその姿を帯び、そして我々観客の目に届いて、初めて完成する。監督という存在は作品を語る上で最も目立ってしまう。巷では「ノーラン信者」などと呼ばれ、トリビアを語るファンの存在もちらほら見受けられるが、自分の立ち所は信者ではなく、クリストファー・ノーランが監督という仕事に徹するように、あくまで観客という立場に徹したいと思う。

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