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随筆|ピンク色の気配 【note創作大賞2023 エッセイ部門 応募作品】

 いけない、と、焦って文章を打ち込み始めた。パソコン右端の黄色いメモ帳に、ひとまず文字をつらつらと出現させてゆく。端的に言えば、「触発された」。社内のポータルに月に一回届く、とある人による、とある部署の活動報告。今月から入社二年目の、一言も話したことのないその人。彼女の書く、導入部こそが肝なのだ。報告それ自体ではなく。

 詩的な文章だと思う。はじめて読んだとき、これが社内用の連絡板に載る、そして載せる言葉なのかと強く動揺した。確かにここは感情や思想を扱う会社ではあるけれど、それにしたって。詩人の書く随筆のようだった。使い古された思考も、言葉も、一切見当たらない。言葉と自身の考え・感覚とを一対一で結びつけ、それらをもっとも正確に出力するための言葉を丁寧に選んでいる人だと思った。……「ゆっくりと」、という形容詞も入れようとし、心中で首を横に振って、削った。彼女にとってはこの文章が平常だと、再読してなんとなく感じられるものがあった。よくない。私がもし同じことをするとしたら随分と時間がかかるだろうというだけだ。

 もはや詩の介在しない、たまに幸運のように少し姿を見せてくれたとしても彼女らを書き留めることを選択しなかった私の、今日で、明日で、明後日な、命日。綺麗な作品になりうる感受と、新説的で一個人に根付き染み出した思考、読者を興がらせる言葉選びを今の私が要求されたなら、筆の速度は地を這って、結局達成されずに、私は彼女に数段劣った、詩のなり損ないを書くだろう。

 彼女の専攻が日本近現代文学だと人づてに聞いた。同じ専攻分野を名乗るのか、と自分を嘲った。知識と鍛錬量の絶対的な差が崖みたいだ。現実に言葉を交わす前から事実以上にそう感じる。……また、私の悪い癖が出ているのかもしれなかった。断定されない可能性が、液体から気体への状態変化のように、指数関数的に膨張して私を押し潰す。それが自分の勝手に生み出した化物であることを知ったのは割と最近だった。どんなに立派な人物でも地球上における体積は自分と左程変わらないんだと、講義教室の最前列で先生を見つめながら無言で涙を流したあの日。そう言えば、進級して一回目の、ガイダンスの回だったから、ちょうど今頃だ。思い出しても、ついぞ春は匂い立ってはこないけれど。

 彼女のルーツが外国にあると聞いて納得した。言葉の些細な不連続や、慣用的でない使われ方は、なるほど、「それがそうであるような」言葉を多く摂取してこなかったからだろう。彼女の日本語データベースはおおよそ、文学作品で構築されているのだろうな、と。羨ましいだなんて思う権利は自分にはないけれど、自身が久しく純文学、特に近代文学に触れていなかったことに気が付いた。今から毎日彼らの著作に浸れば、いつかは彼女の感受の域に至れるだろうか。振り返ることは過去を陳腐化するだけの行為と気づき、春の夜にピンク色の気配を感じられるだろうか。……帰宅したら、まずは半ば本棚の装飾品と化している芥川の全集を開こうと思った。


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