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カテゴリーと自分

よくも悪くも、人は物ごとや人をパターン化して、カテゴライズする。

どういうタイプのものか。

どういうタイプの人か。

こういうタイプは、どんな人か。

どんなタイプ、どんなものがよりよいのか、よくないか。

人は生きている限り、学ぶ生き物だという。学ぶということは、一説には分類分けして、分かりやすく脳に格納して、記憶すること。

パターン化して分かりやすくして、カテゴライズして納得する。

それは当たり前のことで。

例えば、どうしたらよく売れるか、より多く手に取ってもらえるか、よりよい印象を与えられるかなど。分析する時にも欠かせないこと。

私はそういうパターン化やカテゴライズが嫌で、苦手で、自分はしたくないし、されたくない。

この人、こういう人だよね。

この人のnote、いつもこうだよね。

そうやって他の人から思われることは仕方がなくても、自ら望んでカテゴライズされたくない。

プロフィール記事もそうだし、ヘッダーの説明書きもそう。

自分が何者かを説明できることは、素敵なことだし、大事なことだ。

でも自分をカテゴライズして、括りに入れて、こういうタイプなんですと書くことは、「こういうカテゴリーにしか存在できません」と書くことと似ていて、私には自分のできることの範囲を狭めているようにも思える。

例えば、名乗るカテゴリー以外の話題でnote記事を書いた時、カテゴリー目的で来てくれた人は「なんだ違うのかよ」と拍子抜けのこともあるだろうし。

逆に、そのカテゴリーを名乗るだけで敬遠されることもありそう。

または、その所属カテゴリーの記事のネタか尽きた時、書けなくなってしまう。行き詰まってしまう気がする。大事なカテゴリーが、自分の檻になってしまう気がする。

この人は、こういう人。

という安心感、安定感は大事。信頼に繋がるから。

自分はこういう人。

という納得感も大事。何を大事にしたいのかという、自分軸が持てるから。

これだけSNSや情報ツールが溢れていると、なにかの標識や目印がないと、そこに泳ぎつけない。

だから、カテゴリー全部なしがいいとも思わないけど、カテゴリーや括りにとらわれすぎはどうなのかなと思う。

自分がどうしたいかが、やっぱり大事なのだろうと思う。

とあるカテゴリーの中で自己発信をするとしても、ブレてもいいし、そのブレが許されないような場なら、それはたぶんその人に合ってないし、そもそもカテゴリー分けを自分から間違えているのかも。ブレを含んだカテゴリーにする必要があるかも。

ブレだって、その人の大事な一部なんだし。

無分別に何かをせよ、万人受けするために、カテゴリー全撤廃を訴えているわけでもなくて、カテゴリーをあえて書いて発信するなら、もっと自己分析というものが必要なのだろうなと思う。

カテゴリーと自分、どちらが大事かは簡単なこと。

どちらを優先させるかも、簡単なこと。

カテゴリーなんて、所詮名前と分類に過ぎないし、一方で人というものは多面的で、変わっていくものだから。

パターン化して「こういう人」と自分から目印を立てることに、私個人は嫌だなあと思い、わざわざカテゴライズされるようには、プロフィールも書きたくない。

もちろん、自身のカテゴリーを大事にしていくのも個人の自由だし、そこで自分磨きするのも自由。

自分の変化に合わせて、名乗るカテゴリー自体を変化させることだってできるし、やっていいと思う。

誰かに何かを当てはめられたとしても、自分が違うと思えば、それはそれで、おしまいにしてしまえばいいのだと思う。

プロフィールやヘッダーに、たくさんのカテゴリーを背負っている人を見る度、そんなに躍起ならなくてもいいのにと思う。

私も、そろそろヘッダーの自己紹介文を、「たぶん、地球人」にしようかと考え中だったりする。

……しないけどね。

だって、本当に自分が地球外生命体だったら夢がなくなってしまう。叶わなくなってしまう。自分で否定なんて悲しい。

何人でも構わないと思いつつ、地球外生命体の夢も捨てきれない。

捨てきれない以上、カテゴリーにしない方がよさそう。

【今日の英作文】
助けを求めることはとても大事なことです。
Asking for help is of high importance.

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