否定と全肯定は紙一重
全肯定してくれる相手を探していた時期が、私にはある。
自己否定ばかりしていて、誰かにそのぽっかり空いた自分の存在意義みたいなものを、「あなたは大丈夫」「そんなことないよ」「そのままでOK」と言って、全肯定して、埋めて欲しかった。
ありがたいことに、私にはそういう人(カウンセラー)がいたのだけど、どんなにその人が全肯定してくれ、私の虚しい気持ちが、その時は埋まったような気がしても、数時間後には、また同じぽっかり感に苛まれて、絶望していた。
全肯定してくれる人。
否定してくる人。
当時の私には、その別々の人間が全く同じに見えていたように思う。
全肯定してくれる人には、「本当にそう思って、肯定してくれてるのかな」、「どうせ本心では、私のことをくだらない悩みをいつまでも抱えて、同じところでグルグルしてる、バカと思ってるんでしょ」と思った。
せっかくしてくれた全肯定を疑うだけでなく、その人自身への不信感も募らせた。
否定をしてくる人には、「本当のことを指摘してくれてる」と、妙なありがたみを感じて、なのにやっぱり否定されるから、「私はだめな人間だ」と思った。
否定してくれる人こそを、本当のことを言ってくれる人だと信じる。自己否定に、他者からの否定のダブル否定。だからもっと居場所がなくなって、自分に絶望した。オセロみたいに、自己否定と他者からの否定が重なったら、自己肯定になったらいいのにね。
その頃の私に必要だったものは、否定でも全肯定でもなくて、「突き放し」と「問い」だったのだと思う。
否定も、全肯定もしない。
否定も全肯定も、私には毒でしかなく、紙一重の同じ存在だった。
私がしなければならなかったことは、全肯定を求めて右往左往して、結局自己否定と疑心暗鬼を強めることではなくて、否定してくる人の言うことを、マゾっぽく「やっぱりそうだよね。私だめだよね」と追認することでもなくて、自分で、そのぽっかりを埋める努力をすることだった。
突き放されて、話を聞いてもらえなくて、どん底気分なら、どうしたら話を聞いてもらえるか、きっと考えただろうし、突き放されたショックも、なんでだろうと考え、たかな。。。
その辺はあやしい。
突き放されたら、もうこの人と自分は、合わないのだと言って、思って、絶縁宣言をしていた可能性もある。
優しい人というのは、2パターンいると思う。
話し始めた端から、全部その通りと言ってくれる、全肯定派。
それから、特に何も言わない人。求められた時だけ、答える人。
全肯定派の方が、自分が近づいて行った時、傷つきが浅くて、少ないように思える。
でも、私は違うと思う。
傷ついたときは全肯定してほしい。
それは人情だと思うし、普通の反応だと思う。
でも、それが自分にとって本当の優しさかどうかと言うと、分からない。
何も言わない人、「突き放す」人は、よく「なぜ?」を繰り返す。
なぜ、あなたはそう思うの?
肯定も否定もしないかわりに、自分に何を求めているのか、私に聞く。
なぜ、あなたはそういうことをしたの? 私にどうしてほしいの?
正直、初めてこのタイプの人に出会うと戸惑う。
期待していた反応(肯定)が返ってこないから、もあるだろうけど、なぜ私が、人に感じてほしいことを伝えなきゃならないのか。理不尽な感じすらする。
感じることは人それぞれで、人が感じることまで、私が考えることなのか。
今になって思う。
人は他人のことなど、分からないということ。
伝えなきゃ、お互いについて分からないということ。
話し始めた端から肯定することは、本来の意味で、私の話を聞いているのか、というと分からないということ。
否定よりも、タチが悪いかもしれない。
突き放すということは、優しさのひとつだと思う。
あなたが自分で考えることだ。
と言われること。
何を相手に求めているかを伝えるのは、今はあなたの番だ。
なぜ?
と聞いてくれること。
それは優しさ以外何ものでもない。
全肯定と否定は、全く違うようでいて、紙一重。
本当の私を尊重してくれるような、「優しい人」は、どちらもしない。
そういうスタンスを、他者ととる距離感の違いだという人もいるかもしれないけど、「なぜ?」と言ってくれる人は、少なくともあなたに興味があって、全肯定も否定もしない代わりに、あなたの話をその人の立場で聞いてくれるはずだから。
【今日の英作文】
新しい考え方が、新しい人生を照らす。
A new way of thinking casts light on my new life possibilities.
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