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強さは弱さ

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』を読んだ。芥川賞受賞作。

今年1冊目の読了本。

微妙な三角関係の男女のはなし。二谷という男性と押尾、芦川という2人の女性の人間模様を書いたもの。

いつもにこにこして、優しそうな女性にひかれるが、そういう自分に、常になにかモヤモヤしている二谷。

様々な面で、弱くて、優しくて、職場の周りからも、「芦川さんだから」と一つも二つも大事にされる、大人しくて可愛い系女子の芦川。

芦川とは反対に、なんでも(我慢も)でき、意見がはっきりしていて、強いイメージや元気な印象を持たれがちな押尾。

この本を読んで、弱さは強さという言葉が浮かんだ。芦川は弱い人物として書かれる。でも、結局最後には誰よりもいい立場にいる。様々な面倒事から、厄介なことから、大変なことから「芦川さんだから」と免除される。

弱さを前面に出した、ズルさ。

特等席を用意されている芦川には、そのズルさの自覚は、おそらくない。もしあっても、その弱さを困ったことだとか、克服するべきものとか、まったく考えていない。

だけど、申し訳ありませんと言わんばかりに、肩身狭そうに特等席に座っている。それ故に、押尾の心を更に逆撫でするし、読者の私もイラつく。何も「すみません」と思ってもないし、分かってもいないのに、「すみません」と言われる時の苛立たしさ。

自覚のないズルさ。自覚のない特等席。弱くても、できなくても困らない強さ。

弱さが勝つ世界。それは、優しい世界だからではなくて、他に我慢する人、頑張れる強い人が世界に共存するからだ。埋め合わせというか、その優しくて弱くてできない人が、生きられる世の中を用意し、弱い人に提供できる人がいるから。

押尾は、そういう弱さの埋め合わせをするタイプの人間で、強いが故に損をする。報われない立場だ。割を食っている。

頭痛がする、体調が悪いと、早退したり、定時で帰る芦川は、申し訳なさのために職場の皆さんへと言って、手作りお菓子を持参する。

手作りお菓子を持ってくるくらいなら、仕事してよ。と思ったのではないかと、本文に出てこない、押尾の胸中を思う。

押尾の言い分は真っ当だ。可愛くて弱くて、優しくて、でもそれだけなのに、周りから大事にされる。何が私より勝っていると言うんだろう。私の何がいけないのか。芦川の仕事って何だ。

押尾の言葉にこんな一節がある。

許せないから芦川さんのことが嫌いなんだと思っていたけれど、芦川さんのことを嫌いでいると、芦川さんが何をしたって許せる気もする。許せない、とは思わない。あの人は弱い。弱くて、だから、わたしは彼女が嫌いだ。

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』より

話は変わるが、私には絶縁中のきょうだいがいる。

きょうだいと同じ家で暮らしていたとき、この押尾と似た感情を、自分がきょうだいに持っていたと気づいてハッとなった。

きょうだいの行動が許せないから嫌いだ、と思っていた。

でも、考えてみると違う。

きょうだいが何をしても許せないし、嫌いだから、何をしても「あの人のやること、言うことだから」と(変な意味で)許し、そして許せないと思っていた。

きょうだいの甘ったれた、身勝手で、自己中心的な主張に、腹を立てた。理不尽だと思った。家事負担は、私に何もかもおんぶにだっこで、「(親に)頼まれてない」「(親に)やれと言われてない」と開き直る姿勢が許せなかった。

でも、私は、できるから。

やれるから。

やれるように、努力しているから。自分の時間を削って、体調の善し悪しに関係なく、やるから。

不満が膨れ上がっていく。どうして、同じきょうだいなのに、同じように病気を抱えて生きているのに、きょうだいだけ免除され、私はしゃかりきになって毎日毎日家族の家事をひとりでするのか。

思えば、きょうだいは、口だけ達者な「弱い」人間だったのかもしれない。

そして、その弱さに胡座をかいて平気と言うより、「だって仕方がないじゃん」と思っていたと思う。芦川みたいに。

仕方がない。

私には納得できないけど。

仕方がないなら、私は家事なんてやらなくてよかったし、仕方がないなら、私は家事をやらない・できないきょうだいのことを許すのか。一緒に家事を見て見ぬふり、ほったらかしておけたのか。

たぶん、無理だった。

きょうだいはズルい。

一日中家にいる。ゲームして遊んでる。好きな時に寝ている。昼夜逆転して、夜中に暴れ回る。

「イライラする!」と言って。

暴れるきょうだいを親は、「落ち着いて」とかなんとか言って、なだめるだけ。「おかしいのは、イライラするって暴れるあんたの方だ」と言わない親。

仕方がない、らしい。

私が「ひとりで家事をするのは、変だ」と訴えても、「じゃあ、やらなくてよい。やってくれたら、助かるけど」と言う。

親は、ダブルバインドで私を縛っておいて、私の本当の訴えは、鼻先も掠めもしないし、きょうだい間の待遇の差は広がるばかり。私はずっと苛立つ。家の中で孤立していた。

きょうだいが嫌い。親が許せない。こんな家、もう嫌だ。たくさんだ。

でも、もっと大きな枠で、自分を見ると、私は「弱くて、できない人」の類だ。親やきょうだいの問題なんか瑣末なことに思えるくらい、「社会」という世界では助けられて生きている。

病気というハンデがあって、低収入というハンデがあって、これは自分でもいかんともしがたい、いわゆる「仕方がない」ことなのかもしれない。でも、守られている。助けられている。生きさせてもらっている。

私にできることは、自分の弱さを自覚することだ。そして、それを乗り越えようとする気持ちだ。

「弱さは強さ」なんて嘯く自分でいたくない。

「強さは強さ」である必要はないし、「弱さが強さ」であってもいいのかもしれない。

でも、「強い」人がいつもいつも損をするのは、変だと思う。

弱い人が、存在すらだめだというわけでは、もちろんないけど(そうなったら、私はどうしたらいいのか分からない)。

『おいしいごはんが食べられますように』の本来の筋は、ご飯関係の話。食事とはなんであるかというような。

大幅に違うところで、ヒートアップしてしまった。

弱くて、でも強い人間になりたい。そう思った読書だった。

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