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光と色をもとめたマティスの生涯 マティス展後記② 色鮮やかなアトリエとロザリオ礼拝堂

北フランスの「灰色の地」で育ち、47歳でようやく自身の桃源郷ともいえる温かく色鮮やかなニースに辿り着いたマティス。戦争にもみまわれた晩年はどのように過ごしたのでしょうか。

晩年のマティス ー 戦争から逃げそこねて

もともとあまり体の丈夫でなかったマティスは、1931年から約3年かけて大型パネル作品である『ダンス』を完成させた後、疲労のためか、しばらく寡作の時期が続きます。この後、1937年に入院したマティスは、翌年からホテル=レジーナに居を移し、そこにアトリエを構えました。

歴史を振り返れば、このときは第二次世界大戦の直前で、フランスにもファシズムが忍び寄ってくる頃です。
周囲の勧めもあり、マティスもフランスからの脱出を試みますが、実現する前にナチス・ドイツのフランス侵攻が始まり、逃げそこねてしまいました。そしてこの戦争の間、70歳を迎えたマティスは、ホテル=レジーナで、ときに疎開先のヴァンスで、休みなく絵を描きつづけたと言われています。

このような戦禍の中にも関わらず、この時期のマティスの作品は色鮮やかで美しく、見る者の心がはなやぐようなものでした。第一次大戦中の閉塞感に満ちた「窓のある室内画」とは全く異なる作品です。

ホテル=レジーナの色鮮やかなアトリエ

実は、マティス展でもう一つ印象深かったものが、この時期のマティスを映した写真です。展覧会では写真そのものが展示されていたわけではなく、壁面の解説の中に補足的に写真が掲示されていただけだったのですが、この写真がとてもかっこ良くて…。

そこにはホテル=レジーナのアトリエで切り紙絵や礼拝堂用の作品に取り組む車椅子姿のマティスがおり、室内には美しいモチーフや絵画、家具、調度品などが見え隠れするのです。
(ちなみに、撮影者にエレーヌ・アダンという名の女性がいますが、彼女は晩年のマティスを支えた助手兼モデル、リディア・デレクトルスカヤの従姉妹にあたります。)

『小説アンリ・マティス』の中でアラゴンは「彼には住まいを整えるという際立った才能があった」と述べています。

マティスの絵画にはよく色鮮やかな絨毯や織物、陶器や格子窓などが描き込まれていますが、それらは絵画の中だけでなく、実際にマティスのいたアトリエを美しく飾っていたのでしょう。また彼は鳥や植物を好み、多いときには300羽以上飼っていました。アトリエの中がまるで森のようになっていた時期もあるそうです。

体が弱く、「灰色の地」で育ち、貧困も大戦の時代も経験したマティス。彼にとって、身体的な苦痛や精神的苦悩は身近なものだったことでしょう。
しかしマティスは、自らがもとめた自然、光、装飾、色彩を手にし、それを身近に置くことで、生活を快適なものにしようと努めてきました。

芸術家の中には、たとえばゴッホのように、その苦悩の中から素晴らしい作品を生み出す人もいますが、マティスはむしろ、より自然に、より快適に過ごすことが、よりよい作品を生み出すのだと直感していたようです。
それは、自らの快適さを追求することが、多くの人に幸福をもたらすことだと信じているかのようでした。

ヴァンスのロザリオ礼拝堂

こうしたマティスの考えは、ヴァンスのロザリオ礼拝堂という形で表れます。

1947年ドミニコ会のレシギエ修道士に依頼され、1951年、マティスが82歳になる年に完成したこの礼拝堂は、内装、壁画、ステンドグラス、上祭服に至るまで全てマティスが手がけた、集大成ともいえる作品です。

ここには、これまで油絵以外にも、壁画や彫刻、本の装丁からバレエの舞台装置に至るまで総合的に取り組んできたマティスの芸術家としての経験や努力が集約されているのですが、それだけでなく、光や色彩をもとめ快適さを追求してきたマティスの人生観もあふれています。

マティス展では、礼拝堂の映像が流されていましたが、青いステンドグラス越しに入り込むやわらかな光や、それによって明るく照らされる壁画などが素晴らしく、「訪れる人々の心が軽くなる」ようなものでなくてはならないと言ったマティスの言葉通りのものなのです。

こうしたマティスの生き方は、自然体で過ごすこと、快適に過ごすことが最良のものを生み出すのだと教え、私たちを励ましてくれているよう。マティスは私たちに、一つの生き方を示唆してくれているのだと思うのです。

【参考】
グザヴィエ・ジラール著、高階秀爾監修、田辺希久子訳(1995)『マティス ー 色彩の交響楽』創元社


マティスのモデルを務めた女性たちについての記事も準備中ですので、よかったらご覧ください^ ^

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