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ウーバー全盛の今、昭和の「出前」が懐かしい

ぼくと同じ昭和生まれの美容師さんと話していて、懐かしくなった。

昭和の「出前」って良かったね、という話。

おばあちゃんの家で頼む出前

ぼくの家族が出前をとるのは、おばあちゃんの家に遊びに行った時だけだった。

確かおばあちゃんの家の近所にあるうどんやさんの「力餅」というところに頼んでいた。当然、スマホではなく、電話で、チラシを見ながら注文する。

チラシには文字しか書いていないので大きな冒険はしない。大体は1人ずつ頼むものがいつも決まっていた。ぼくは天ぷらうどん、お姉ちゃんは素麺だったと思う。

肩に乗せたお盆

もちろん届けてくれるのはギグワーカーではなく、お店のおっちゃん。おそらく、経営者でもあり、料理人でもあるおっちゃん自身が配達もしていた。

肩に大量のお椀を乗せたお盆をいくつも重ね置いて、バランスをとりながら、作りのしっかりした自転車に乗ってやってくる。

「まいど〜」

と声をかけながら、自転車のスタンドを器用に立てて、肩にお盆を乗せたままひょいと自転車を降り玄関前へ。

ぼくらは、それをリビングというか畳の「居間」のちゃぶ台に次々に運んでいく。まだ熱々である。

暗黙のルール

その間におばあちゃんが払う料金は、お店で食べる金額と一緒。出前代をとっている店なんてなかったと思う。

その代わり、頼むほうで気を遣っていて「大人数が来た時しか頼んじゃだめ」、「お店が混間ない時間に頼む」という暗黙のルールを教えられていた。

「迷惑をかけないように」と、お釣りが絶対に出ないように、いつもおばあちゃんは、家中の小銭をかき集めていた。

「規約」とか「契約書」とかではなく、「常識」とか「思いやり」の方が社会を動かす大きな潤滑油なような存在としてあって、それによりまだ世の中がうまく動いていた時代だったと思う。

器はお店と同じ

居間のテーブルに置かれたうどんの器は全て陶器。これもお店で出しているものと変わらない。

使い捨ての容器なんて絶対になかった。もしそんなもの使っていたら、ぼくのおばあちゃんは「もったない」と食べた後洗って、何度も使っていたと思う。

なんたって、当時、陶器の器にかけられた唯一の使い捨てのラップすら、洗って再利用しようとしていたのだから。

その陶器の器はお店のおっちゃんは帰り際「洗わんでいいですよ」というけれど、おばあちゃんはもちろんしっかり洗って、お礼の手紙を添えて軒先に置いておいた。そうしたら、1、2日たつといつの間にか取りに来てくれてなくなっているのだ。

ウーバーではなく「出前」を

天ぷらは、エビを見つけるのが難しいくらい衣が大きかったし、お姉ちゃんの頼んだ素麺には、なぜか真っ赤なチェリーが乗っていたりと、決して高級な料理ではなかった。

でも、ぼくにとってはすごく美味しくて、その出前は、年に数回しかない贅沢で、何よりのご馳走であったと記憶している。

別にウーバーを批判したり、否定したりしたいわけではない。

でも、ぼくにとってあの頃感じた「出前」の「非日常の贅沢」は、なぜか、今のウーバーには感じられない。なにかこう「思い」の部分が足りないような気がするのだ。

もちろん、食べ物を作っている人の「思い」は変わらないだろう。でも、届けられた食べ物自体にそれを感じられない気がして。うまく言えないのだけど、その大切なものを配達の途中でおっことしてしまっているように感じるのだ。

それに、使っている容器も働いている人のことを考えてみると今の方が最先端で便利だけど、当時の方が思いやりもあり、明らかに今の世の中に求められている、持続性もあったと思ってしまう。

残念ながら、もう二度とあの牧歌的な時代に戻ることはないだろう。それに、料理と配達を兼務するおっちゃんの多忙さを考えれば、決して当時が全て良かったわけでもないと思う。

でも、なぜだろう。もう一度あの時の「出前」で注文して、美味しい天ぷらうどんを無性に食べたい。そう思ってしまったのだ。


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