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だれのための「まち」なのか——政治学者・岡野八代さんに聞く、〈ケア〉と〈まち〉

「街づくり」はとても複雑なものです。
そこに住む住民はもちろん、商いを営んでいる人、デベロッパー、行政……さまざまな主体の活動の上に成り立っています。各々の活動はお互いに何らかの影響を与え、結果的にまちという姿で現れます。そう考えると、それらの主体自身が街づくりを意識することから、本当の街づくりが始まるのではないでしょうか。

複数の人たちの手によって進められる街づくりは、考えや思想の異なる人たちも一緒に、ひとつのまちについて議論を尽くさなければならないと考えます。まちにはさまざまな考え方をもった住民がいて、議論の際に排除されてしまう人たちがいてはいけないはずですが、主に行政主導の現在の街づくりに疎外感をもつ人たちが確実に存在するであろうと想定する必要があるでしょう。

こうした課題に対して必要な考え方のひとつに「ケア」が挙げられるのではないか? ケアは、ケアする/される相互の関係性が必要とされるため、複数の人を疎外しない考え方だといえます。しかし無意識に都市で日常を過ごすなかで、気づかないあいだに差別を助長していたり、ケアを軽視してしまっていたりすることがあるのではないか?

今回のインタビューでは、これまで街づくりと紐付けて語られることの少なかった「ケア」に焦点をあてることで、住民が主体となったよりよい街づくりのためのヒントを得られるのではないかと考え、「ケア」を中心に政治学やフェミニズムについて研究する岡野八代さんにお話をうかがいました。

岡野さんがふだん街づくりに感じられている内容についてうかがうことから議論がスタートしましたが、最後には意外にも、ケアと街づくりの共通点が浮き彫りになりました。街づくりに取り組むわたしたちにとって耳の痛い内容でもあり、人が中心となる街づくりを実践する者として多くの気付きがあるインタビューになりました。

岡野八代さん

岡野八代
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教員、専門は西洋政治思想史・フェミニズム理論。主著に『ケアするのは誰か?——新しい民主主義のかたちへ』(2020年、白澤社、ジョアン・C. トロントとの共著)、『戦争に抗する——ケアの倫理と平和の構想』(2015年、岩波書店)、『フェミニズムの政治学——ケアの倫理をグローバル社会へ』(2012年、みすず書房)、訳書にケア・コレクティヴ著『ケア宣言——相互依存の政治へ』(2021年、大月書店)など。

政治・家族・ケア


——今日は「ケアと街づくり」というテーマで、政治学・フェミニズム理論の研究者である岡野さんにお話をうかがいます。

よろしくお願いします。わたしは街づくりが専門ではありませんが、なにかお役に立てるお話ができればと思っています。

——まずは、岡野さんがご専門にされている「ケア」について、どのような概念なのかをご説明いただきたいです。ふだん生活していると、「ケア」と言われれば医療や介護のようなケア産業をダイレクトにイメージすることが多いのですが、岡野さんが研究されているケアの枠組みは、おそらくもうすこし広いものなのかなと。

では、わたしの自己紹介の代わりに、専門である政治学についてお話します。政治学のなかでも政治哲学が専門になるのですが、ヨーロッパを中心に哲学者たちが「政治とはなにか」を考えてきた長い歴史と伝統のある学問です。

しかし、現代からその政治哲学を読み返すと、政治とはなにかと語ってきた人たちが男性だけだったという反省があって、わたしはフェミニストの立場からこれまでの政治哲学を現代から反省的に読み返していくという研究をしています。

——これまでの政治哲学を反省するうえで、ケアの概念が重要になるということでしょうか?

はい。ケアとはなにより他者からの支援や物質の提供によってようやく生存が可能になる、他者への依存が不可避な人びとのニーズ(必要)に応える活動であり、かつ「政治的、社会的、物質的、そして感情的な条件を提供するという、個人的かつ共同的な私たちの能力」[*1]を指します。

*1 「「ケア」という用語を、家族ケアや、ワーカーたちがケア・ホームや病院で、そして先生たちが学校で実践している直接手をかけるケア、そしてその他のエッセンシャル・ワーカーたちによって提供されている日々のサーヴィスを含む、広範な意味で使用しています。それだけでなく、以下のようなケアも意味されています……協同組合的な代替案である、連帯経済の構築に関わる活動家たちによるケアや、住居費を低く抑えたり、化石燃料の使用を抑え緑地を拡大させようとしたりする政治的な政策などです」

ケア・コレクティヴ 著、岡野八代・冨岡薫・武田宏子 訳『ケア宣言——相互依存の政治へ』(大月書店、2021年)pp.10–11

政治学が「政治とはなにか」と定義するとき、対照的に「政治的でないもの」が考えられるわけですが、その典型となる領域のひとつが「家族」なんです。かつては、家族のなかでは暴力も犯罪にはならなかったですし、女性は社会進出もできず、すべて家長の所属物と見られるために20世紀に入るまで女性の参政権もなかった。どうして女性はこんなに抑圧されなければいけないんだろう、どうして家族は政治ではないんだろうと、素朴な疑問を抱くようになりました。

そうした状況を見返してみると、家庭内における「ケア」の役割のほとんどを、女性が担ってきたという事実に気づきます。さきほど話されていたケア産業としての介護や保育などが専門家・社会化したのは20世紀以降であって、それまで多くのケア労働は家庭の内部で女性の手によってまかなわれていましたし、現在でも女性の職業として認知されていることが多いと思います。

——なぜ現代社会でもケアの役割は女性が担うものだというような認識になっているのでしょうか?

政治学では、20世紀以上にもわたって、あるひとつのモデル化された理想の市民像を想定しています。それは「自分自身で判断が下せて、経済的にも自立した、合理的な個人」です。これはどのような社会であっても(社会主義であろうと、現代の資本主義社会であろうと)ほとんど変わらないんです。そのモデル化された理想の市民像は、すなわち男性像であって、家族をケアする、次世代を育てるという役割は、自立の外部として市民の責任からは排除されて、女性に押し付けられてきたわけです。家族が非政治的であり、こうした理想の市民像がモデルとなった政治がつづいているために、現代でも女性が抑圧された社会になっているのだと思います。

しかし、人が生きていくためには、ケアの営みは不可欠なはずです。産まれたときにはだれもがだれかのケアを受けていて、老後にも介護が必要になる。コロナ禍になり、ケアがなければ一部の社会機能がストップしてしまうことが明らかになって、いろんなかたちでケアに関心をもたれる方が増えたと思います。ではなぜ、そうした人が生きていくために不可欠な営みの多くが女性に押し付けられているのか。こうした疑問や批判的考えを政治学に導入するために、わたしはケアの研究をしています。

新自由主義批判としてのケアとミュニシパリズム


——岡野さんが翻訳された『
ケア宣言——相互依存の政治へ』を読むと、新自由主義を批判している箇所が印象的でした[*2]。新自由主義によって産業の個人化が進み、「セルフケア」が前景化しすぎるあまり、ケアそのものを阻害している状況を生んでいるというような批判だったと思います。「自立した合理的な個人」という理想の市民像のお話はまさにこの批判を引き継いでいるように感じました。

*2 新自由主義:国家による福祉・公共サービスの縮小・民営化と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする経済思想。市場の自由競争によって経済の効率化と発展を実現しようとする。

「結局のところ、新自由主義が典型とする主体は、企業的な個人であり、かれらが他者と取り結ぶ唯一の関係は、競争的に自己を高めるなかにしかありません」

ケア・コレクティヴ 著、岡野八代・冨岡薫・武田宏子 訳『ケア宣言——相互依存の政治へ』(大月書店、2021年)p.6

ケアの倫理、あるいはケアの政治思想を研究している者にとって、男性中心的な自立した個人といった考え方はつねに批判の対象になっていましたが、いまや世界的に共通して、新自由主義にどう対抗するかが、もっとも大きな課題になっていると思います。

じつは今回このインタビューのお話をいただいたとき、本当にわたしでいいのかなと迷っていたんです。というのも、これは一般的な話として聞いてほしいのですが、街づくりにおいてコンサル企業が行政と協働することが、新自由主義における街づくりの問題を大きく広げているように感じていたからです。一部の人たちだけが儲かって都合がいい、キレイな街づくりが進められることで、市民が置き去りにされてしまった事例が多いように思います。

——街づくりに関するコンサルティングをおこなっているNTTアーバンソリューションズ総合研究所のメディアとしては、耳の痛いお話です。

わたしの暮らしている京都市は、完全に新自由主義に毒されてしまったようなまちだと思っています。人口、とりわけ子どもの人口が減った結果、小学校などの跡地の多くが外資系の企業やホテルなどになってしまっている。これまで市民の税金で蓄えてきた貴重な財産を、行政の一存で、市民に一切の断りもなく、借金が多いからという理由だけで売却していいのだろうかと、とても憤っています。

——市民の共有財産としてのパブリックが行政の私物として扱われた結果、市場にさらされてしまったような事例ですね。

たとえば、どこかからプランナーがやってきて、行政の担当者と議論して、街づくりの開発プランを決めますよね。もちろん住民の意見も聞いたうえで進められるのですが、それも一部の住民だけであって、排除されてしまう人たちがいます。排除される人の多くが、女性や外国人のような、マイノリティとされる人たちです。排除された人たちの意見は通らないまま、その地域ならではの文化的な資源が、マジョリティによって勝手につくり変えられてしまう。こうしたできごとがいま目の前で起こっていて、わたし自身も肌で感じています。

——街づくりが実践されることはいいとしても、一部の市民が排除されてしまい情報が届かないまま、勝手に進められているように感じられているということですね。本来の街づくりは、住民の暮らしを豊かにするために実際の声をまとめて、それを行政の政策にうまくつなげることであるはずなので、行政とデベロッパーがより早い段階で広く住民の声を聞く機会をもつような世の中の仕組みをつくる必要があるのだなと、身の引き締まる思いです。こうした状況において、ケアの考え方はどのように有効に作用するのでしょうか?

『ケア宣言』では、スペイン・バルセロナのような、財政破綻してしまったあと、住民たち自身によって新しい街づくりを実践している事例が紹介されています。バルセロナの人たちは、自分たちでお金を持ち出して協同組合をつくって、利益を得ながら相互支援(コミュニティ・ケア)を実現する、地域に根ざした政策を実施しているんです。こうした国には頼らない、ミュニシパリズム(municipalism)[*3]による政策は、自分たちの手で自分たちの必要なものを生みだしながら、ケアに満ちたコミュニティ運営を実践しようとしているのだと思います。

*3 ミュニシパリズム:地方分権よりもさらに自治を打ち出し、かつ資本主義による公共性の解体に強い抵抗を示す革新的な市政。……中央政府と異なる政策を打ち出し、旧左翼政党とも距離を置く、新しい市民の連帯政治のあり方。ケアワークにも配慮した市民による直接政治をめざし、新自由主義に対抗して公共サービスを再公営化し(本書では「インソーシング」[*4]と呼ばれる)、かつ排外主義に走る極右政党に対するオルタナティヴを志向している。

ケア・コレクティヴ 著、岡野八代・冨岡薫・武田宏子 訳『ケア宣言——相互依存の政治へ』(大月書店、2021年)p.81 訳者註[1]より抜粋

*4 インソーシング:一度私企業に外部委託してしまった事業を再度、公共事業に組み入れること。たとえば、日本にも関わる事例でいえば、ヨーロッパで顕著に見られる水道事業の再公営化が挙げられる。[編注:アウトソーシングの反対]

ケア・コレクティヴ 著、岡野八代・冨岡薫・武田宏子 訳『ケア宣言——相互依存の政治へ』(大月書店、2021年)p.82 訳者註[2]より抜粋

——新自由主義によってケアが公共空間からアウトソーシングされてしまう現状に対して、自分たち自身で公共を生みだそうとするような、力強いお話ですね。日本でもミュニシパリズムによる政策の事例はあるのでしょうか?

2022年から東京都・杉並区の区長に就任した岸本聡子さんは、ミュニシパリズムの研究をされてきた方なので、今後実践が進むと思います。

より具体的な例でいえば、小さな事例ですが、たとえば京都市・南区にある劇場「THEATRE E9 KYOTO」は、市民の寄付を中心に運営されていて、ミュニシパリズムの実践だと言えるでしょう。E9エリア限定会員というサポーター制度があって、地域の人たち向けにすこし安い値段で会員になれて、劇場の公演を観劇できます。資本主義に頼らないかたちで協同組合的な運営がなされていて、そういう表現がされていないにせよ、自分たちのまちにこういうものがあったらいいなと「まちをケアする」という考え方で実践されているのだと思うんです。

Theatre E9 KYOTO Instagram アカウント

——「だれのためのまちなのか」「だれがまちを運営するのか」という視点から街づくりを見直したときに、自立した個人によるものではなく、協同組合的な方法によって相互にケアする/される関係をつくりながら、経済的にも成立させるという、すばらしい事例ですね。ちがう言い方をすれば、「わたしがまちを運営しているんだ」と思えるような街づくりをどのように実現するか、という問いのようにも感じました。

自分たち自身がまちの一員であると感じている人の多いまちって、「そのまちらしさ」をすごく感じますよね。たとえば、コリアンタウンと呼ばれる日本の地域では、やはり政治から排除されてしまいがちな方々が暮らしているわけですが、自分たちで編み出した知恵でコミュニティを築いていて、独自の文化や雰囲気を生みだしているように思います。いわゆる活性化というほど賑わっているわけではなくても、住んでいる人以外にもその地域に関わっている人がいたりして、その場所を訪れる意味があるというか、人を惹きつける魅力がある。そんな場所にとつぜん大きな資本が入ったりすると、ジェントリフィケーション[*5]が起きて一気に見たことがあるようなまちになったりする。そうはあってほしくないなと思いますね。

*5 ジェントリフィケーション:都市において、低所得者層の居住地域が再開発や文化的活動などによって活性化した結果、地価が高騰すること。都市の富裕化現象とも呼ばれる。

——全国各地でおこなわれる新しい街づくりがどこも同じようなまちを生みだしてしまって、地域が独自の魅力を失いつつあるのではないかという懸念が高まっていますが、ケアに満ちた街づくりは、その地域らしさを感じる独自の街づくりにつなげる手段になるのかもしれませんね。

資本の価値の変化とケア


街づくりについてふだんから思っていることを付け加えると、たとえばわたしの暮らしている京都市には、無料で安全に遊べる公共の広場としての公園がとても少ないように思います。あったとしても、車でないと行けないくらい遠かったりします。子育て世代や高齢者、あるいは障害者のような、実際にまちに暮らしている人たちが気軽に外に出られず、家に閉じ込められてしまう。それは街づくりがインバウンド中心に進められていて、いかに観光客を集めるかという視点から考えられているからだと思うんです。

だれもがいま住んでいるまちのことが大好きだと思うので、その気持ちを逆なでされるような街づくりはしてほしくないなと思っています。

——京都にも、まちのシンボルとなっていた古くからある施設をリノベーションして、商業施設としてだけでなく、公園のようにいろんな人たちが集まれる公共スペースとして設計されている施設もあります。一方で、誰でも気軽に入ることができ、安全に集まれる無料の公共の広場も維持管理が必要で、その維持管理を継続していくためには、さまざまな制度の活用や費用を生みだす仕組みを構築する必要があることも事実です。

おそらく資本主義から完全に脱却することはむずかしいですよね。ですから、大量生産・大量消費のようなお金の使い方ではなく、たとえば文化的なものや公共的なものにお金を使うような、資本の価値の捉え方が変わっていく必要があるのでしょうね。その意味でも「THEATRE E9 KYOTO」はよい事例だと思います。そうした価値観の転換のなかで、街づくりにおいてもケアを中心とした考え方にシフトしていってもらいたいですね。

——ここまでのお話を整理すると、街づくりとは活性化・賑わいづくり・事業性を確保することなのだろうか? という疑問がありつつも、しかし資本主義をすべて放り投げることもできないなかで、そのバランスをどう取りながらケアを社会の中心に置いた街づくりを実現できるか、ということだったように思います。さきほどの例のように、ケアに満ちた空間を公共的なスペースとして商業施設がつくるという事例はいくつかありますが、そうした資本主義とケアの新しい付き合い方についてはどのようにお考えですか?

さきほどお話した無料で安全に遊べる公共の広場としての公園は、欧米ではたくさん見られますが、わたしが一時的であれ住んだことのあるアメリカやイギリス、あるいはフランスも、いずれも資本主義国家です。だから資本主義的な政策とケアは必ずしもかけ離れたものではないのかもしれません。

では日本と欧米でなにがちがうかといえば、愛着ですかね。欧米には、広い公共広場への強い愛着のようなものがあって、そこを商業化しようとは考えてもいないように思います。もちろん維持管理などには税金が使われているはずですが、加えて寄付の文化も進んでいて、市民自身が公共広場を維持する意識をもっている。資本の価値の捉え方が変わるというのはこういうことだろうし、自分のお金が自分のまちに具体的に活かされていることがわかるような仕組みがあれば、日本でも公共広場への愛着が深まっていくかもしれませんね。

——「愛着」を「ケア」に置き換えても同じことが言えそうです。

そうですね。資本の価値の変化とケアの概念をうまく結びつけているともいえる事例もあります。北九州市でホームレス支援をされている奥田知志さんという方がいるのですが、行政とも連携しながらケア・コンプレックス(複合型社会福祉施設)を建設して、そこを拠点にコンセプトとしての「まち」を拡げていく「希望のまちプロジェクト」を進められています。[編注:コミュニティデザインを山崎亮(Studio-L)、建築設計を手塚貴晴+手塚由比(手塚建築研究所)が務めている]

NPO法人 抱樸 による「希望のまちプロジェクト」を紹介する動画

このプロジェクトの資金は、寄付やふるさと納税を活用して集めていて、自分のお金の使いみちがとても具体的にわかります。最近奥田さんのお話をうかがう機会があったのですが、いろんな人の居場所になりながら地域づくりを実践されようとしていて、全国で参考にされるべきだと思いました。

——まさにケアを中心にしたまちづくりプロジェクトですね。

このプロジェクトで重要だと感じたのが、押し付けない、管理しない、でもつながっている、というようなコミュニティをつくりたいと奥田さんがおっしゃっていたこと。たとえば『フェミニスト・シティ』[*6]では、フェミニストにとって都市こそがもっとも生きやすい場所だ、という主張が紹介されていますが、ジェンダーなどの規範から自由でいるためには、無関心と関心のあいだのようなコミュニティがベストだったりするわけです。

*6 レスリー・カーン 著、東辻賢治郎 訳『フェミニスト・シティ』(晶文社、2022年)

ほどよい関係性のなかでお互いの個性を尊重しあう。そうした意味では、資本主義市場と結びついたすこしクールな関係性は、ケアを中心としたまちづくりとも相性が悪いわけではないのかもしれませんね。

ケアと街づくりは役割が同じなのかもしれない


——これから街づくりを実践しようと思っている人たちに向けて、岡野さんからアドバイスをいただけますか?

繰り返しますが、わたしは街づくりの専門ではないので、アドバイスというか、こうなったらいいなというお話になりますが……。今日いろいろとお話をしながら、ケアと都市の開放性の関係について考えていました。

わたしは大学院のときにカナダのトロント大学にいたのですが、トロントはLGBTQ+にとてもフレンドリーなまちで、毎年6月のプライドマンス(世界各地でLGBTQ+の権利や文化、コミュニティーへの支持を示すさまざまなイベントが開かれる月間)には北米最大のパレードが開かれます。見に行くと、パレードには警察官も軍人も、いろんな人たちがとても楽しそうに参加している。都市って開放的なんだと、とても感動したことを覚えています。

トロント市内外のLGBTQ+コミュニティを支援する非営利団体「Pride Toronto」のInstagramアカウント

——日本だと警察官は警備していますからね。

冒頭の話にすこしもどりますが、政治的でないものとして家族があり、ケアの役割の多くを女性に押し付け、家庭内に閉じ込めてきたという話をしました。ケアに満ちた街づくりとは、ケアの役割を家庭の外、つまりまちに開くということになります。家に閉じ込められて子育てや介護に追われていると、ケアされている側も、ケアしている側にも、満たされないニーズがたまりますよね。でも1歩まちに出てだれかと一緒に行動できると、精神的な負担が緩和されたりして、ニーズが満たされる。ケアは一見すると、ケアされる人とする人の二者関係のように考えられますが、実際には、ケア関係には第三の人、空間、あるいは仕組みが、つまりケアから解放されるような場が必要です。

ケアは、不満や不足を抱えた人たちのニーズを満たすことが大事な役割なわけです。そしてニーズの満たされない人たちが集まってくるのが「まち」なんですよね。そのことをあらためて考える必要があるのかもしれません。ニーズを満たしてくるまちは楽しい場所であって、子どももお年寄りも楽しめる場所が都市にもっとあっていいんじゃないか。魅力的なまちって、みんなが楽しげにしているまちであるはず。そんな魅力あるまちが増えるといいなと思います。

——満たされないニーズを満たすものがケアであり、まちでもある……。ケアも街づくりも、もしかしたら役割が同じかもしれないというこの仮説は、だからこそ街づくりにおいてケアの考え方は重要だということでもあるでしょうし、これからの街づくりを実践する人たちにとって、とても勇気づけられるお話だと思います。今日は本当にありがとうございました。

(2022年12月18日収録)

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聞き手:春口滉平、今中啓太・齊藤達郎(NTTアーバンソリューションズ総合研究所)
構成・編集:春口滉平
編集補助:小野寺諒朔、福田晃司
デザイン:綱島卓也


参考記事

西本千尋「連載:ケアするまちづくり」(日本建築学会『建築討論』全6回)
街づくり活動の支援やネットワークの運営に従事する筆者による、まちづくり視点での「ケア」に関する各種制度や取り組みのレビュー。

岸本聡子 ヨーロッパ・希望のポリティックスレポート 「第1回:ミュニシパリズムとヨーロッパ  その1」(マガジン9、2019年)
現・杉並区区長、岸本聡子氏によるミュニシパリズムの解説記事。ヨーロッパにおける実践事例が複数報告されている。


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