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空っぽの自分を見つめる

学生のときから自分がかなり頭の回転が早いようだということを自覚するようになっていたのですが、だからと言って、では何がやりたいのかとか、どういうものが好きなのかとか、敷かれたレールっぽい生活からの脱却とか、そういうことを目指せるような胆力みたいなものは圧倒的に足りないままで、のらりくらりと平凡以上くらいの大人になりました。

性格の問題もあるのですが、私はこれが本当にきっついコンプレックスで、いやそれ以外にも細かいコンプレックスは沢山あるのですが、特にこの「なんでもない平凡な自分」というのが本当にきっつい。周りの友人たちが際立って優れていて、立ち姿ももがく姿も美しく見えてしまって、自分はなんて面白みのない人間なんだろうか、と、そういうことばかりを考えるようになってしまいました。

たとえば高校の部活の同期で、4年間で学部卒で社会人になったのは私だけでした。他は留学、留年、浪人、6年生大学、院、といった状況で、私だけが平凡に社会人になってしまって、社会人1年目で理不尽で面白みのない人生を送り始めた私には、留年を繰り返した挙句大学を止めて医学部を目指す友人や、勉強と趣味に傾倒してそれを仕事にまで推し進めた友人は、本当に眩しくて、苦しかった。思い出すだけで、今でも同じ熱で苦しむことができるくらいです。

冒頭で「頭の回転が早くて」「平均以上の」などと申し上げるくらいですから、さぞ自分に自信のある人なのだろうと思われることが(ここ10年で)増えましたけれど、もともと私はひどいコンプレックスで内気で目も当てられないようなネガティブ人間でした。哲学と出会い、内外の差別感情を見つめているうちに、自分を対外的に卑下することは、それ以下の(と周りが思う)人たちを蔑んでいることになってしまうと自覚しなおして、時間をかけて胸を張るようになり、それに引っ張られる形で多少明るくなったのですが、根源的な内面は変わらない。

実際に頭が良いのかどうかという問題と、自分で自分をどう評価するのかという問題は、(相互作用はありながらも)実はほとんど別の問題であるということは、存外見つめられていなかったりします。

で私は、自己評価が極端に低い。自分は馬鹿で、怠惰で、高慢で、やりたいことも無い。資本主義経済の新自由主義を肯定するでも否定するでもなく、波に乗っかるでも反発するでもなく、のうのうと生きています。敷かれたレールに沿って歩きながら、レールに対してぶつくさ文句を言う。レールから外れることもできないくせに。


最近「だが、情熱はある」という、オードリー若林/南海キャンディーズ山里(敬称略)の半生を描いたドラマが放映されていて、私はこのお二人のユニット「たりないふたり」のファンなのもあってドラマをじっくり見ているのですが、ドラマを見ていると原作が見たくなるということで、「たりないふたり」の解散ライブ「明日のたりないふたり」をhuluで久しぶりに見返すことにしました。

詳細は省きますが、お二人の半生はまさにコンプレックスとどう向き合うかを模索する日々、それに尽きます。
それを想起させつつ、漫才の最後に二人が並んで立って、滔々と「明日もきっとこうなんだろう」と交互に仰るシーンが本当に泣ける。いろんな「たりなさ」を、誤魔化して、騙し騙しで、なんとか取り繕って、健全みたいな振りをしながら、腹の中でぐっちゃぐちゃにストレスを抱えて歩いていくしかないんだよなあ、こんなに面白い芸人二人ですらこうなんだな、自分ごときであればそりゃそうだよな、と考えさせられる。

一生付きまとうんだろうな、これ。こいつ。多分能力の問題というより性格の問題なんだろうから、どんなに能力を得て、どんなに優秀な人間になっても剥がれ落ちない。コンプレックスなんてそんなものなのかもしれない。


なんでこの記事を書こうと思ったのかと申しますと、「明日のたりないふたり」を見て少し救われたので、「こんなものか」と思い直したかったのが一つ。

そしてもう一つ、私、なんでもないところから記事を書くのが苦手なのですが、誰か、とか、何か、とかに対する自分の解釈を文章にするのはめちゃくちゃ得意なんです。自分の中から湧き出てくる何かは何もないのだけれど、すでにある何かを膨らませたり言語化したり解説したりするのはかなり上手で(アイデア出しよりもファシリテートのほうが得意)、
で、プラスの方向に行かずに「ああ、なんて自分空っぽなんだろう」と思ったんですね。そのネガティブさに「たりないふたり」が思い出されて、笑って、記事にしてみようと思いました。

いわゆる「0⇒1」が得意な人と「1⇒100」が得意な人というのが居ると思いますが、私は圧倒的後者で、ああ、書いていてきづかされますが、まさに全部コンプレックスに繋がりますね。1⇒100ができるということはつまり整理が上手いということでもあり、いかにして0⇒1が出来上がったのかはブラックボックス的な側面がありますから、その整理整頓が及ばない、神の啓示のような、その美しさを(頭の回転が早い故に(いい加減胡散臭いですが))より深く理解できてしまって、更に苦しいんですね。

こうしてフォローしてあげないと潰れそうになってしまうから、というのもありつつ、自分の足りない部分をしっかり抱えて、一生拭えないであろうコンプレックスと向き合って、大きなため息を吐きながら、できなかったことを数えつつ、明日も生きていきます。

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