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世界が切った梶と、日常の明日について

今日はちょっとシビアな話になるけど、いいかな。

毎日ウクライナの情報をtwitterで眺めている。
もう、やめて、と思いながら、目をそらしたくない。
目を背けることのできない人たちが現にいるのだから。
精神的には負担がかかっている、わかっている。
それでも。
実は世界はずっとこうだったんだ。
ただ、何かで覆いをかけられていただけ。
自由が私たち全てに行き渡っていたわけではないし、
そもそも自由ですらなかった。

世界は何も変わっていなくて、ただ、
かけられていたメッキの耐性が切れてしまっただけ。

実家の野原を見渡して、あざみひとつ生えていないのに愕然とする。
今から取り戻すことはできるのかな。
時々絶望感が寄せてくる。
ひどく嫌な気持ちで目が覚める。

世界が梶をきったことに気がついていないわけではない。
片方のスクリューがうまく動かない、積荷の重さが少しずつ負荷をかけていて。
しばらく、ネットに何も書けないでいた。
溶けていく氷山をただ眺めているような、そんな感じ。
でも、毎日朝が来て、夜が来て朝が来る。
明日、同じ日常が続くとは限らない、そういう世界線に
気づき始めている。
それなのに、まだ半分拭いきれないメッキのかかった自分に嫌気が差していて。
脱皮に時間がかかる。
それでも、この仕事の続きをする?できるの?

日常を続ける大事さっていうのもある。
たわいのない、でもかけがえない。
それはメッキかそれとも、生きる根幹か。
きっと見極める力がいる。

年と共に体力も気力も記憶力も落ちる。
世界が夕暮れに見えてしまうのは、それもあるんだと思う。
目を凝らして薄暮の明日の道を探す。
世界はこのまま沈んでいくんだろうか。
ただ、遠くから来た分、遠くまでみえる、ということもあるかもしれない。

一つだけ答えがあって、
それは、まだまだ人の可能性は未開だということ。
あいもかわらない、人の、きれいさとみにくさと。
そのはざまに、まだまだ、人は多くの無意識を湛え持っている。

ほんの少し、わかるかわからないかくらいだけれども、
生徒との対話が変わってきている。
私はほんの少し、手放すことが上手くなってきたなと思う。
必要なことが伝えられるようになったなと思う。
無駄なことに時間をかけることがなくなったなと思う。
くだらない大人の采配を脱ぎ捨てよう。
子供たち、自分の足で歩け。大丈夫そのために生まれてきたんだから。

絶望の空は抜けるように青いが希望の空もおんなじ空だ。
瓦礫を踏み締めて、そこを突き抜けていこう。
子供らよ、いや、自分よ。


 *写真は長久手文化の家のホールの天窓、オイリュトミー「みずめぐり」を見に行った折に。











愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!