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「妥協できない人間」を量産する現代

やはり、「妥協」、「諦め」、「折り合いをつけること」は大切だ。

今は「選択肢がとにかく多い時代」、「比較対象が多い時代」。
だからこそ、さおさら「自発的諦め」が求められるのだ。

昔なら、そもそも選択肢が少なかったから「選択する必要」が少なかったし、諦めも少なかった。
あるいは諦めが自然にできていた。

仕事も、恋愛も、結婚も、、親とか生まれた家柄、親戚、といった「第三者」が決める。
だから、そもそも「選択の悩み」というものが極端に少なかったのだろう。

自分が選択をしていないのだから、親が決めたことだから、と「半強制的にでも受け入れる」ことができた。
諦めも、妥協も、そういうことをする必要がなかった。
悩まずに済んだ。

今は真逆だ。
「自由が多い」ということは、それと引き換えに「選択するストレスが」を受け入れなくてはいけない。
仕事も、恋愛も、結婚も、、全ての物事が「選択するストレス」を孕んでいる。
人生全体が、常に「選択するストレス」で満ちている。

昔なら親が農家なら子も農家。
就活で仕事を選ぶストレス、採用で落とされるストレスはなかった。

恋愛も結婚も、昔なら真面目に仕事をしていれば勝手に縁談が舞い込んでいたが、今ではマッチングアプリで何万という選択肢を持ち、当時に何万というライバルと比較されなくてはいけない。

結局、「選択する」ということはストレスなのだ。
「選択する」ということは、「その他すべての選択肢を諦める」ということなのだから。

であれば、精神安定上、選択は少ないほうが悩みも少ない。

また、「選択をする」ということは、「その選択の責任をもつ」ということでもある。
自分の選択には責任という重圧が、常にのしかかっている。

この点、「第三者による強制的選択」が多い従来の社会では、その責任も軽かっただろうと思う。
自分の意思で選択してはいないのだから。

「責任」というよりは、諦めが自然のうちにできていて、それを受け入れられているから「仕方ない」で済ますことができる精神が育っている。
それが「諦め」や「妥協」という精神が生まれつき育っていて、故に、「諦め」や「妥協」に直面しても、なんとも思わない、心を大きく乱すことがなかったのだろう。

人は自由を求めがちだ。
でも人が求めて、手にしてきた自由が、人を真に幸せにしたかと問えばそうではないと思える。

「自由の中からの選択」は常に「他の選択肢の諦め」なのだから。
常に自分の意思でなした選択が正しかったのか、間違いだったのか、と、迷う心が生じるから。

自由、選択肢が多い現代は、「妥協」、「諦め」、「折り合いをつけること」が難しい時代だ。
多くの人がそれをできずに悩んでいる。

選択することは、常にストレスなのだ。

私は精神疾患を患っているが、この「妥協」ができず、苦しんでいる。
こういった「諦められない思考」からいつになっても抜けられず、うまいこと折り合いをつけられず、それが精神的負担になっている気がする。

自分でも「諦め」の必要性を理解しているが、これまでの闘病生活の中でこびりついてしまった「妥協できない思考」からは未だ抜け出せない。
なんとかこの点、悟りを得られないかと思ってしまう。

同じように、精神疾患にならずとも、この「選択のストレス」、「諦められない思考」で苦しんでいる人は増える一方ではないかと思う。

この流れはネットの普及、グローバリズム、核家族化、、などによってもう引き返すことはできないだろう。

こうなれば、もう自分自身で「諦める術」、「うまく折り合いをつける術」を身につけるしかないと思う。

どの時代も人はその時代を生きるしかない。
生きる時代は選べない。

そう考えると、「諦める術」、「うまく折り合いをつける術」というのは、現代という時代の処世術かもしれない。

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