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【中編】新宿に死神 ※閲覧注意(10000字)

※本文中に自殺(未遂)の描写が含まれています。
 苦手な方の閲覧はご注意下さい。

『神様は乗り越えられない試練は与えない』。

そんな言葉は、子どもの頃から知っている。
そして、それが何の役にも立たないということも、今は知っている。

それでも、首に巻き付いたタオルに力を込める時とか、今みたいに15階建てビルの屋上の柵の外側に立っている時はいつだって、いるのかどうかも分からない神様に向かってこう叫んでいる。

――貴方の与えて下さった試練に耐えられなくて、ごめんなさい。

その半分で、実はこうも思っている。

これでようやく解放される、楽になれるんだ、って。

そして、そのすぐ後をまた「ごめんなさい」が追いかけてくる。
あたしだけ楽になろうとして、ごめんなさい。
こんなにも脆弱なじぶんで、ごめんなさい。
何の役にも立てなくって、ごめんなさい。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

鉛を詰め込まれたかのような頭の中に、無数の「ごめんなさい」がゆっくり沈んで澱になっていく。

しばらくするとその上澄みに浮上するのが、また決まってこんな思考。

卑怯者で、弱くって、役立たずのあたしがいなくなるのは、きっといいことなんだ。だから、これがあたしに残された唯一の社会貢献。

そんなことがずぶずぶと頭を巡る。

気持ち悪い。
頭の中にできた鉛の沼を掻きまわしながら、じぶんをまだ救おうとしている。そんなじぶんに吐き気がしてくる。しかも、そのカタチは見るに堪えないくらい歪んでる。

でも、もう終わり。
こんないびつで不毛なループは、今夜、終わらせるんだ。

気持ち悪い。吐き気がこみ上げる。
せり上がる胃液の酸っぱさに涙がにじむ。
あたしがいなくなれば、世界は少しきれいになる。
これは、世界のため。


「えー、待って。それ、違うんですけどぉ」

飛ぼう、と思って一歩踏み出したその時だった。
背後から真っすぐに飛んできたその声は、テレビのバラエティ番組の中のお笑い芸人に突っこむみたいな気楽さに包まれていた。

あたしの意識が、ゆっくりとこの現実に戻ってくる。
耳に新宿の喧騒が聞こえはじめる。
目の前の高層ビルの誰かの残業でできた灯りが色を伴って目に映る。
上空に向かって吹き抜けるひとつかみの風が、あたしの髪を乱した。
はらはらと肩に背中に戻ってくる髪の束を迎えながら、あたしは思った。

人がいた?
気配はなかった。

そういう空気には、普段以上に敏感になっているはずだった。
此処にやって来た時、人の気配なんて一切感じなかった。
それは確かだ。

「ま、とりあえずこっちおいでよ」

さっきと同じ気楽なトーンで投げかけられる声。
その声のする方をゆっくりと振り返る。

「ハーイ」

軽く挙げた右手をこちらに向けて、小指側から順にしなやかに折り曲げ、ウェーブしてみせる。
そこにいたのは、若い男だった。声の気楽さのままのカジュアルな風貌。
手の動きから、佇まい、空気感、何から何まで軽い。
ほとんど白に近いほどキツくブリーチした髪はアシンメトリーにカットされて、ホストみたいに束を作ってきれいに立てられている。

「“こんなあたしはいなくなるのが世界のため”」

そいつは、空調ユニットのそばに座り、タバコを取り出す。
カチャン、と鋭い金属音を立ててジッポの火をくわえたタバコに近付けた。

「なんかさぁ、今、そんなこと思ってたでしょ?」

深く吸った一口を白い煙と共に吐き出し、言った。
新宿の喧騒と、男の背後に瞬く高層ビル群の灯り。
その中に放たれ、拡散し、白く揺らいで煙はすぐに掻き消えた。
消えるそばからまた新しい煙が生み出される。
その男の手元、口元。
吐き出された白い煙が黒い夜の闇に飲み込まれるその瞬間。
煙と一体となった夜の空気が粒子となって彷徨う様子まで見えるようだ。

解像度が、高い。

“死”の霧が、あたしの周囲に黒く揺らぐ時、閉ざされた思考とは裏腹に、この眼に映る景色は怖いくらいの鮮明さで迫ってくる。
まるで、閉ざされた思考の隙間に風穴を開けるためであるかのように。

男の吸っているタバコの銘柄も、ジッポに施された装飾もはっきりと分かる。
男が煙を吐き出すまでの一連の軽やかな動きが、まるでスローモーションのように見える。

あぁ、以前にもこんなことがあった。
“死”の霧があたしを包む。夜の闇にあたしを引きずり込む時。
その絶望をスイッチにして自身は感情から切り離される。そして、知覚だけが果てしなく鋭くなる。

あの日、あたしが寝ていた二段ベッドにベルトを巻き付け、母は体重をかけた。
圧迫された首筋に浮かぶ動脈と鬱血していく顔。
口からは唾液が白く泡立って流れ、全身が大きく痙攣する。
13歳のあたしは、母の脇の下に手を差し入れ持ち上げようとするが、ビクともしない。
そんな状況であたしはただ、感じていた。

…あぁ、首を吊った人間は、汚物を垂れ流すと言うけど、本当だったんだ…。

感情はなかった。
いや、その時に死んだのだ。


そう、今もあたしは無感情で目の前の男を見ているだけだ。


「とりあえず、おいで」

男はもう一度、言った。
その響きの軽さは変わらない。
でも、軽いだけではなかった。

優しい?

温かみのこもった声。
いや、それとも違う。

ただ、この現実を感情を排して見つめる今のあたしには、「同情」の有無ははっきりと分かる。男には、その色は微塵も見えなかった。そして、ただ正義感から自殺を食い止めようとするような自意識も感じなかった。
なんのためにあたしに声を掛けたのか。
それが、分からない。

だけど、今のあたしにはどうでもいいことだ。

「仕事だからね」

おもむろに男は言い放った。
そして、軽やかに立ち上がりこちらへ向かって歩いてくる。

仕事……?
あたしは、スタスタと近寄ってくる男を警戒し、一歩後ずさった。
新宿にそびえ立つ崖際があと数歩の内に迫る。

「なんのために声を掛けてきたんだって、そう思ったんでしょ」

男が早口に言う。
確かに、確かにそうだ。今、そんなことを考えていたのだ。
そういえば、さっきも…。

「えー、待って。それ、違うんですけどぉ」

飛ぼうと思って踏み出したあたしの背後に投げかけられた言葉。
「“こんなあたしはいなくなるのが世界のため”」
そんな思考について、この男は否定したのだ。

まさか……こいつ、あたしの考えていることが読めるの?

「ピンポン」

その瞬間、男は目の前にいた。
おまけに、あたしの手は男の手の中にあった。
握りしめた手をぐいと引いて、そのままどんどん歩みを進める男。

――ピンポン。当たり?
こいつ、あたしの考えていることが読める?
まさか。
でも、まるで、心の声に答えるようなタイミングだった……。

結局、あたしは茫然としたまま、さっき男が座っていた辺りにまで引きずられていた。
あっという間のことで、抵抗する意識さえ起こらないままに。

「これで、ゆっくり話せるね」

腰掛けた男は、呆然と立ち尽くすあたしににっこりと笑い掛けた。
これが仕事というのなら、この笑顔は営業スマイルということになるのだろう。

「そう、仕事なんだ。だけど、今日は君みたいなカワイイ女のコでラッキーだったよ」

これは、営業トーク。

「やだなぁ、素直に受け取ってよ」

「本当に考えてることが読めるんだ」

へらへらと笑う男に向かい、言葉を投げる。
ついに言葉を発したあたしを見て、男の表情が変わった。

「イエス、イエス!そういうこと。で、これも仕事にちょっと関係ある、かも」

「仕事って…」

「そうそう、その話、聞いてほしいんだよね」

男は、またタバコを取り出す。

「俺の仕事、“死神”なんだけど」

そんなことを言い放った男の声と態度は依然軽い。
カチャン、ジジッと音を立ててタバコに火が灯される。
そうだ、さっきもはっきりと見た。そのジッポの装飾は鎌を持った髑髏。

“死神”。

「死神が自殺を止めるなんて、おかしいんじゃないの」

あたしは、投げやりに言った。
よく分からないけど、変な奴に絡まれた。
この時のあたしは、こんな風にしか思っていなかった。
“死神”なんて、自殺を止めるための口から出まかせだ、と。

「お、なかなか鋭い指摘だねぇ」

男は、見えない拳銃を向けるようにあたしを指で指し示した。

「あー、それは、“死神”というものの世間一般的なイメージの話、であってだね」

男は存在していない眼鏡のつるをくいと上げる仕草をしながら、取って付けた説明口調を楽しむように話す。

「“死神”というと、人の死に際に現れて魂をさらっていく、とか、むしろ死神自体が人を死の淵に追いやる存在だ、とか思われておりますが」

ふー、と長い一息。タバコからの燻る煙と、男の吐き出した白い煙がひとつになった。

「違うんだな、これが」

死神の仕事。これは一体何の話なのか。
そんなことについて考えたこともなかった。
そんなの、当たり前。
神様も死神もその存在のことは、ぼんやりとしか考えたことはなくて、自己都合でいくらだって引き合いに出すし、反対に存在を否定し、忘れ去ることだってできる。そんなものだ。
神様の与えた試練を乗り越えられないあたしという存在だって、簡単に作り出せるし、絶望と一緒に消してしまうことだってできる。そんなもの。

「違うっていえば、さっき思ってたあれね」

――“こんなあたしはいなくなるのが世界のため”

「それ、違うんだよなぁ」

神様の期待に添えないあたし。
こんなあたしがいなくなれば、世界は少しきれいになる。
これは、世界のために。

そう思ってた。
それが違うと否定したいこの男はなんなのだろう。
命を無駄にするな、とか、歪んだ献身は見苦しいとか、そんなことを言いたいのだろうか。言われなくたって分かっているそんなことを。

もう、どうだっていい。どうだっていいから、放っておいて。
焦点の合わない視界に、男の吐き出した煙が白く燻るのがぼんやりと入った。
今のあたし、きっとすでに死んでいるような虚ろな眼をしている。
もう、放っておいてよ。

「いやいや、それも違うし、放っておけないんだよね。なにせ、こっちは仕事なんだから」

男は、首を竦めて見せる。これまた、軽い仕草に見えた。

「よし、一つずついこう。まず、何が違うかって、“世界のため”って思ってることなんだよね。今、君が死ぬことはなーんにも“世界のため”になんかならない」

「そんなこと、分かってる」

思わず低い声で唸る。

「あ、いや、ごめんごめん。そうじゃなくって…。やだなぁ、怒んないでよ。俺いっつもこうなんだよなぁ。いやさ、よく同僚からも突っ込まれんのよ。“お前は、人間の気持ち分からなさ過ぎだ”ってさ」

男が大袈裟に頭を掻く。

「じゃなくって、“世界のため”にというより、寧ろ世界の秩序を乱すことになりかねないっていう意味なんだ。そう、現時点での君の死がね。
そして、もう一つ。なぜ放っておけないかというと、俺ら死神は人間の死を調整して世界の秩序を保つのが仕事だからなんだ」

男は一息に言った。
言い終わると同時、吸い終わったタバコを取り出した携帯灰皿に押し入れた。その灰皿の表面にも、ジッポと同じモチーフが描かれていた。
鎌を持った髑髏。“死神”。

男の言っていることは、にわかには信じられない。
自殺を止めに入るのが仕事?
そんなこと、信じられるわけがなかった。

「まぁ、信じられないのも無理はない。だから、信じなくていいよ。俺の仕事は信用を得て何かを売りつけることじゃなくって、ただ、死ぬのを止めることだから」


「だから、死なないで」

男がそう言った時、何故か全身に鳥肌が立った。
なにこれ。
こんなことははじめてだった。
人の声に、たった一言にこんなに内側を揺さぶられるなんて。
その声は、それまで男が発していたものとは全く違っていて、直接頭に入ってくるように響いた。

「……あ……」

気が付くとあたしは、泣いていた。
はらはらと止めどなく落ちる涙の雫。
溢れる大粒の涙が、温かく頬を濡らしていく。
なにこれ。

あたしは、ただ黙ってその涙を流れるままにしていた。


――――

どのくらいそうしていただろうか。
拭うこともせず、流れるままにしていた涙はもうすっかり乾いていた。

「もう大丈夫だね」

男の声があたしを包むように響く。
優しい声だった。

「君は死なない」

男が、ゆっくりと噛みしめるように言葉を放つ。
その手には、またしても吸い掛けのタバコがあった。
ヘビースモーカーの死神だ。

あたしは、さっきまで死のうとしていたのだけれど、今は、この死神の前にぼうっと突っ立っているばかりだ。
陰鬱な気分はすっかり取り払われていた。
ひとしきり涙を流したことですっきりしたんだろうか。
もうこれ以上、この15階建てビルの崖際に近寄ろうなどという気持ちは微塵も起きない。

「というか、君は死ぬべきではない。今はね」

死神の言葉に、ふいにある情景が頭に浮かんだ。
圧迫された首筋に残る紅い索状痕が痛々しく残る母親、その後運ばれた病室。
二日間の昏睡状態に陥った母が退院間際、こう漏らしたことを思い出したのだ。

「“今は死ぬべきではない”。そんな声がした。だから、戻ってきた」

母は死ねなかった。
母の頸動脈を圧迫したベルトは、掛けられた重さに耐えきれず切れた。
それで、母は脳にわずかな後遺症を残しながらも奇跡的に一命を取りとめたのだった。
そして、昨年長年の持病による衰弱で死んだ。
まだ若いながらも命を全うして亡くなったのだ、と主治医は話した。

あの日、頸動脈の圧迫によって意識を失った後、母は何もない暗闇を彷徨っていたという。
何もない暗闇。それは、全くの暗闇で、目を閉じているのか開けているのかも分からなくなるような真の暗闇だったそうだ。
方向感覚も上下感覚も失い、恐怖が押し寄せてくる、そんな闇だった。
その闇に突如、大きな文字が現れたという。

それは『無』。

そして、どこからか不思議な声が聞こえてきた。

「お前は終わりだ」

怖くなった母は、その声の主に向かって叫んだ。

「終わりって、どういうことですか」

「終わりは終わりだ」

「終わり…わたしは死ぬのですか。死んだら、死んだらどうなるのですか」

必死に叫ぶ母に、声は答えた。

「死んだら何もない。“無”だ」

と、同時に暗闇に漂う『無』という文字が大きく浮かび上がった。
母に迫りくる文字と、その『無』という響きに異様な恐怖を感じた母は、その時思ったのだという。

いやだ!死にたくない!!

そして、その瞬間にまた別の声が聞こえた。

「今は、死ぬべきではない」と。

それはそれは、優しい声だった。
その声が助けてくれた、その声に導かれて還ってくることができた、と母は言っていた。


もしかして、その声が死神?
そんなことがふと頭を過る。

「うーん、そうかもしれない」

目の前の死神が三本目のタバコを弄びながらつぶやく。

「二代揃って死神をお目にかけるなんて、ご縁が深いなぁ」

そう言って死神は、しばし考え込むような仕草を見せた。

「そうだな。じゃあ、特別に死神の仕事についてもう少し詳しく教えてあげるね。
死神は、人間の死を調整して世界の秩序を保つのが仕事だ。調整っていうのは、簡単に言うと、死ぬべき人間は死んで、死ぬべきじゃない人間は死なないようにするってことだね。
ちょっと簡単に言い過ぎたからもう少し説明しよう。死ぬべき人間を迎えに行く。これは、世間一般の死神の仕事のイメージだから分かりやすいだろう。
じゃあ、死ぬべきじゃない人間を死なないようにするっていうのはどうか。さっきの君みたいなのが例だ。君は死ぬべきじゃない。
では、どうして死ぬべきじゃないのか、死んではいけないのかってことが気になってくるよね。そこも特別に教えてあげよう」

「非均衡熱力学理論って、知ってるかな」

あたしは、黙って首を振った。もちろん横に。
考えるまでもない。はじめて聞く言葉だ。

「いや、まぁ、普通知らないよね。気にしないで。まぁ、その理論ではさ、無秩序へと向かう流れの中で部分的に秩序が生じるって言われてるんだけどさ。この時の無秩序ってのが宇宙全体とすると、君のお母さんや君みたいなのが部分的な秩序ってことになるんだ。
生まれて、死ぬ。
これは秩序に則って行われる。そして、いつ死ぬか、これも秩序に則って決められてる。俺は、秩序通りにこの仕事をこなして、人間の死という秩序を守っているわけ」

「どう?分かったかな?」

「さっぱり」

「だよね。まあ分からなくていいんだ。
俺の仕事は信じてもらうことでも、理解してもらうことでもないからね。ただ、死なないでいてくれればいいんだから。
そう、だからこれも仕事なんだ」

「これも仕事…?」

「あ、また余計なこと言っちゃったな…。これだから俺はな~」

死神がきまり悪そうに頭を掻く。

「三度目は失敗する」

「……?……」

「これは、俺ら死神の間で囁かれてるジンクスなんだ。三度同じ人間に会う、または、三代続けて会う。すると三度目は仕事に失敗する。
君の場合は、母親、そして君。次の代にもし会うようなことがあれば、どうなるか分からない」

仕事の失敗。それは、つまり、そういうこと。

「だから、三度目がないように二度目のフォローをしっかりするのも仕事の内なんだ」

「…へぇ、仕事ねぇ。フォローねぇ」

あたしは、寂しい目をして沈んだ声を出した。
突然、饒舌に特別な話をはじめたのも仕事ってわけだったのだ。

「あぁ!また!!ごめんって~。またやっちゃったか。オモンパカるって苦手なんだよ~」

焦る死神。この軽い風貌から飛び出した『慮る』という言葉の仰々しさがおかしくてついつい吹き出してしまった。

「お詫びにもう一つ教えてよ」

あたしは、息を整えながらこう聞いた。

「仕事に失敗するとどうなるの?
…つまり、死ぬべきじゃない人間が死んでしまったとしたら」

強い風がさぁっと吹き抜けた。
風に乱されたあたしの髪とは、対照的に男の髪型はびくともしていない。
よほどホールド力の高い整髪料を使っているのだろう。

「死ぬべきじゃない人間が死んでしまったとしたら…。
その時は、身体のない意識がひとつ増える」

「…それって…」

「幽霊みたいなものかな。てか、それが幽霊か」

「幽霊…。じゃあ、あんたたちは幽霊を増やさないために仕事してるの?」

「うーん、まぁ、そんなとこかな。
仕事に失敗するっていうことは幽霊を増やしてしまうってことではあるからね」

男は大袈裟に首を竦めてみせた。

「幽霊が増えるとどうなるの?」

「使い切らないままぶった切られてしまった命は、エントロピー増大の法則に当てはまらなくなってしまう。つまり、拡散しないまま留まり続ける」

「…?…」

「意識ってのは通常、身体の中に入っている時はそこで留まってるんだ。よっぽどの衝撃を外部から加えない限りはね。
それが、死んだら入れ物である身体を失って拡散し始める。その拡散が始まって散り散りになってしまう前に別の身体へ導くのも俺たち死神の仕事。
というか、それがメインの仕事だ」

「で、自殺を止めないとヤバイってのは、拡散できない意識をつくってしまうからなんだ」

「拡散できない意識がつまり幽霊…みたいなもの?
拡散できないと何がヤバイの?」

「拡散できないってことは、秩序に反してるんだよ。本来、命は使い切ってエントロピー増大の法則に従って拡散する。
いや、正確には拡散しないように次の身体をあてがうんだけど、実際は法則通りになる。いずれは絶対にそうなる。
拡散ってのは、拡がっちゃって、元には戻らないってことだ。
秩序は、すべて、この不可逆の法則で成り立っている。
ほら、この煙と一緒だ。吐き出されて拡がって、散り散りになる。元に戻ることはない。そして、消える。
物理的な力を加えない自然の状態であれば、すべてのことがこの不可逆の法則に従って、秩序立てられている」

「じゃ、秩序に反してるのがそんなにヤバイことなのか?これは、ヤバイ。宇宙が死んでいけないからだ。
そもそも、この世界って何のためにあるのか?そんなこと、考えたことある?」

宇宙の死?
この世界は何のためにあるのか。
目の前の、職業を死神だと名乗る男は、一体何を言っているんだろう。

あぁ、でも、この世界は何のためにあるのか。

そんなことは考えてみたことがある。
それは、この世界に何の価値も見出せなかったから。
あたしたちはみんな、生まれて死ぬ。
金持ちも貧乏も、悪人も善人もみんな死ぬ。
年寄りだって子供だって、死ぬときは死ぬ。
結局死ぬのに、何のために生まれてきたんだろう。
こんな世界に何か意味があるんだろうか。
この世界は何のためにあるのか。

「その答えを知ってるの?」

男はゆっくりと頷いた。

「何のため?この世界は何のためにあるの?」

あたしは、早口に訊いた。
本当にそんなことが分かるんだったら。
あたしは知りたい。


「生まれて死ぬ。そのためだよ」



――生まれて死ぬ…ため?

死神の軽く透き通った良く通る声が、あたしの頭を激しく揺さぶった。
頭を殴られたような衝撃が走る。

生まれて死ぬため?

「どういう…」

「ことかって思うよね。そりゃ、そうだ。でもこれは決まってることなんだ。
世界にはこれしかない。“生まれて死ぬ”。
それは、この世界全体――宇宙がそうだからなんだ。宇宙だって、生まれて死ぬ。
生まれた瞬間から死ぬことが決まっているんだ。
非均衡熱力学理論のいうところの無秩序である宇宙は、混沌としているようで実はそれだって秩序に則っている、と俺らは思ってるんだよ。
拡散という秩序は宇宙の“死”を加速する。宇宙が秩序に則り速やかに死んでいくための秩序だ。
この世界の――宇宙の最終目的は死ぬこと。“死ぬ”という秩序。
それ以外にないんだから」


「…それだけ…?」

世界は何のためにあるのか。
そして、あたしはなんのために生きるのか。
それは。

生まれて死ぬため。
秩序に則って。

頭がくらくらしている。
目の前が渦を巻いたように歪み、焦点が合わなくなってくる。

そんなの、頓知のような答えだ。
狐につままれ、同時に狸に化かされたような答えだ。

“死”という秩序。
それしか、ない。

「そう、あるのはチツジョっていうもの。
それだけだ。」

あたしの視界は、男の口から吐き出される煙へと次第に焦点が合ってゆく。
男の口がゆっくりとした動きで言葉を吐き出す間、それをじっと見ていた。
ゆらゆらと拡散し、やがて消えていくまで。


「で、ここまではマニュアルなんだけどさ。あ、なんせ仕事なもんで」

へらへらと笑いながら頭を搔く男は、次の瞬間には真剣な眼差しにスッと切り替わった。
その表情にドキリとする。


「だから、ここからは俺の個人的意見なんだけど」


そう言うと吸っていたタバコをおもむろに揉み消し、続けざまに次の一本を取り出す。
カチャン。男のジッポが音を立てた。
4本目。
真っ暗なビルの屋上で、その一点だけが紅い輝きを放つ。

「だったらさ、“生まれて死ぬ”その間、好きなことやった方が良くない?
こうして嗜好品に興じたりしてさ。」

男はゆっくりと白煙を空に放った。
それは二度と元へは還らない。
そしていずれは消える。
これはあたしだ。
生成と拡散、そして消滅。
“生まれて死ぬ”。
それは秩序によって決まっている。
生まれおちたそのときから。

「それなら、好きなことやって、うまいもん食って、バカやって愉快に生きりゃいい。ほら、桜の花びらが散っていくとき、ひらひらと舞うだろ?あんなふうにさ、好きなダンス踊って」

男は立ち上がり、くわえタバコにこう言った。

「この世界もそんなに悪いもんじゃないだろ?」

大きく手を広げて。
それが翼のように見えた。
なぜかそれは死神のイメージの漆黒ではなく、天使の……

そしてその声は、軽く透き通ってあたしの耳を震わせた。
よく通る声。
男の背から風が吹く。
それは烈風となり、男の翼から羽根をさらい、あたしの元へ届ける。

舞い散る無数のフラグメント。
無慈悲な風がもぎ取った羽根のような、花びらのような、白い欠片。
頬に肩に、身体の隅々に届き、楽し気に踊り狂う欠片たち。
そのひとつひとつに、あたしが見える。
泣き、笑い、苦しみ、幸福に浸り、時に感情そのものに蓋をした、過去のあたしが。

死んでしまいたいと思うような悪いことひとつあれば、その人生は悪いものなのだろうか。
生きていてよかったと心から思えるそんな瞬間がたった一度でもあれば、その人生はいいものなのだろうか。

わからない。
その答えはきっとずっと出せないけれど。



吹き抜けていく感情の欠片たちに別れを告げて、あたしは思い切り深く息を吸い込む。


「またね!!」


叫んで駆け出す。
一瞥もくれず男の横を風のように通り過ぎると、重い扉を開いた。
そこに男がいたのかどうかさえわからない。それでよかった。
そのままのスピードで階段を駆け下りる。
もう息が切れている。
一段一段と降りていくごとに、胸に湧き上がってくるものがあった。


あの死神にまた逢う日まで、あたしは生きる。
秩序に則って。
風に散らされながら、楽しくダンスを踊りながら。



END



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