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「と」について思うこと

タイトルについてだが、多分タイトルだけでは意味が分からなと思う。しかしわたしが抱いている疑問を簡潔に表そうと思った時に、

『と』について思うこと


が一番いい形だなと思ったので、このままにする。

これはまさに今の状況に関する疑問だ。ある番組を見ている時に、何故か頭から離れず、違和感を覚え、結局見える形で残すことにした。

ある番組の中で、「誰それと料理をする」という旨の発言があった。でも昨今の状況を考慮し、リモートで通話をしながら行うという形であった。つまり、「誰それと料理をする」とは云うものの、実際に物理的に同じ空間に居合わせてはいない。

ということは、実際に「誰それと料理をする」という状態ではないということだ。私が見た限り、出演者は、離れた場所で通話しているだけである。一緒に料理をしているわけではない。個々がそれぞれのことをしながら、ただ一緒に作業をしているという感覚や意識があるだけである。

「誰それ料理をする」

「と」

言葉は同じであっても、状況が違うと、何かが違うような気がする。何かが。正確に正体をつかめてはいないけれど。

ここでいる「と」は、実際の同じ空間にいながら作業をするという「随伴」を意味するものでもあり、またリモートで行うような「同時性」を意味するものでもある。

オンラインやリモートへの注目が為されたことによって、「と」の何かが変質しているような、そんな気がしている。

以前の「と」、つまりオンラインのようなものが大々的に注目される前は、「誰かとまさに一緒に居る」「同じ作業をしている」「身体的な接触がある」「相手に声がはっきり聞こえる」「自分と他者の相互作用性が強い」といったニュアンスを含んでいるように思える。

一方今のような状況では、「と」は、「つながっている」「同じ作業をする」程度の意味しか持っていないように見える。特に重要なのが「つながっている」というニュアンスだろう。

また、「つながる」という言葉は、わざわざ近くに居るときには意識しない言葉のように思える。遠くに離れているから、「つながる」というニュアンスが、今の「と」に現れているのではないだろうか。

つまりこのような違いがあると思われる。今までの「と」、そして今の「と」には、それぞれの「受動/能動」或いは、「静的/動的」という区別が付くと思われる。

「誰それ料理をする」と言っても、実際に同じ空間に居るならば、わざわざ「つながり」を意識する必要は無い。つまり、特に努力というか、お互いが働きかけなくても、同時性、即応性のようなものが既に感じられる。受動的な「と」というわけだ。

一方、オンラインやリモートにおける「と」の場合、まずなにがしかツールを使って、「つながる」ための環境を整えねばならないし、通話できたとしても、相手の声を聞き取ろうとしたり、聞こえるように話したり、相手に見えるように行動をしたりなど、能動的な動きが求められる。いざ相手と作業をしようとする状況において、能動的になる必要がある。つまり、能動的な「と」ということだ。

だからより正確なことばで違いを表すなら、

「誰それ料理をする」

そして

「誰それ料理をするためにつながる/しようとする

かもしれない。

例えどちらも「誰それ料理をする」と言われたとしても、英語では表せば、前者が「I cook with ~」だが、

後者は「I try(am trying) to zoom/to have a video call in order  to cook(talk)with ~」のように、私には見える。

ここから、また私の推測だけれど、「誰それ料理をする」と「誰それ料理をするためにつながる/しようとする」は、前者と後者で、「料理」の優先度が異なっているようにも見える。

つまり、前者に比べて後者の場合は、「料理」自体の優先度が低く、料理という行為の、つながるための媒介としての性格が強くなるということのような気がする。もちろん、前者においても、「つながり」が重要な時もあるとは思うが。

さて

本当に些細な疑問であるかもしれないが、

あなたはどう考えるだろうか、それぞれの

「と」

について。

そして、この疑問が些細な事柄であるのか?ということについて…



今日も大学生は惟っている。



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