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差異化の反復という矛盾

ただ、私はアウラを見たような気がした。でもそれは、現実を逃避して、 ”見知らぬはずの知っている場所に行こうとすること”と嫌に似ていた。

これはただの素人目からのもの。しかもまだ10代のガキ。音楽家とか、芸術家とかでもない。マスメディアへの投稿から始まる技術の恩恵を受けた大衆の一人の、ちっぽけな衝動。ベンヤミンだの、オルテガだの、或いはハリスあたりが、口を揃えて言っている。

その口上、いや時代という桎梏で、私は認識論誤謬を自覚し、そしてそれを無視しよう。




差異の複製


ヨルシカさんの作品、「盗作」は、今まで聞いたアルバムのコンセプトの中で一番グサグサと心に刺さるものであり、自分の根幹を揺るがす、或いは人生におけるあらゆる活動について、驚きや畏怖の念を抱くように差し向けるようなものであると感じた。

それが、「音楽」或いは、作品とは何かという幹の部分への疑問を投げかけているのだと私は勝手に理解した。「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」というジャック・アタリが著した本には、ヨルシカさんの「盗作」という作品に現れざるを得ないその矛盾・葛藤・穴・絶望のようなものを、見事に表現している、と私は感じた。

その文章を引用したいと惟う。

量化不可能な、非生産的な、純粋記号でありながら今日では売られるものとなった音楽は、来たるべき社会、形のないものが大量に生産され消費され、ほぼ一律な対象の増大のなかに差異が人為的に再創造されるという来たるべき社会、その輪郭を描き出している。〔中略〕差異化の道具であるはずの音楽が、反復の場となる。それ自身は、商品のなかに差異を解消し、匿名化し、スターという存在のなかに自らを隠蔽する。〔中略〕差異が追放された論理のなかに、失われた差異を求めんとする苦悶。(ジャック・アタリ、2012、9-10)

正直驚きだった。偶然好きというか、一生涯をかけてこの曲を聞き続けるのだろうと思えたアーティストさんの作品とそのコンセプトに、これほどまでに似ている文章に出会うとは。まぁ、「音楽」の本ということだから、あまり珍しい発見ではないのかもしれないけど、それでも初めての「音楽」についての本だったので、本当に驚きだったということは書いておく。

ヨルシカさんの「盗作」というアルバムには、様々な「盗作」という「オマージュ」がちりばめられている。「思想犯」という作品には、オーウェルの「1984」というディストピア(ユートピア)的世界を描いた小説が参考にされていたり、それぞれの作品には、元となったイメージやコンセプトが現れていると”考えることが出来る”。

今回のテーマである、「差異化の反復という矛盾」というものには、実を言うと、「盗作」という作品だけではなく、「だから僕は音楽を辞めた」という作品にも通ずるようにしてある意図がある。

それでは、引用したそれぞれの文に注目しながら、ヨルシカさんの作品、或いはワタシが以前書いた記事もおそらく参照しながら、現代についてのある一つの意見を示すことができればと惟う。


差異について


まず、「ほぼ一律な対象の増大のなかに差異が人為的に再創造されるという来たるべき社会、その輪郭を描き出している(ジャック・アタリ、2012、9-10)という文。これは、音楽の四つ目の系(レゾー)に関連するものであるとも考えられる。

四つ目の系(レゾー)については、「(一つの)アウラから、複製へ。アウラの消滅から、それぞれのアウラの創出へ:その二。」という記事でも引用しているが、ここでも念のために引用したいと思う。

交換の彼方に考えられ得る最後の系。音楽は、そこで作曲、即ち音楽家の享受、根本的にすべての交通の外にあり、自分自身の悦び以外の目的を持たぬ行為、自分自身とのコミュニケーション、自己超越、孤独で個人主義的な、それ故非商業的な行為(ジャック・アタリ、2012、57)

音楽の四つ目の系(レゾー)。これをワタシなりに簡潔に表現するとするならば、「同一のプラットフォーム上での”個性”」であると惟う。大量生産・大量生産を繰り返すなかで、同じもの・似たようなものが氾濫し、経営における「ブランド」という、人々の意識やコミュニケーションに大きな影響を与える「シンボル・トークン」のようなものが必要になる。

売れない。「モノ」だけでは。記号消費。イメージの消費。そういったものが、「モノ」の存在を否定するかのように、あたかもそれが偽物や悪であり、必要のない塵であるかのように、記号が消費されていく。その「記号」というものを作りださなければならない、そういった部分に投資しなければならないという事態を、「ほぼ一律な対象の増大のなかに差異が人為的に再創造されるという来たるべき社会、その輪郭を描き出している」は、表現していると、ワタシは思うのです。

ここで、ヨルシカさんの作品からも、考えてみましょう。

「思想犯」或いは、「盗作」というのは、同じもの・似たようなものが溢れに溢れてしまった世界で、あらゆる状況で、無理やりにでも「個性」を出しているような苦悶や困難を、或いは、その「人為的な差異」の、窮屈さ、本物になれない苦しさを、どこにもない「自分らしさ」への切望のようなものを描いていると私は考えます。


溢れる作品。

音楽。大衆化する音楽。

拡がる情報。マスメディア。

加速する資本主義。拝金主義。

埋もれる才能。

作品。商品化する音楽。

有名さのジニ係数(全卓樹、2020)。


音楽は、芸術である。そこには、作者の独自の世界観が現れる。(それが本当の意味で、オリジナルであるかどうかは分からなけれど)しかしながら、それは無限に見えながら、有限のように見えてしまうものだ。(無限であることには変わりないが)

あまりにも増えた音楽によって、「差異」が小さいものになる。或いは、売れる音楽というものが、音楽や作品として認められることによって、「差異」が消えていくということかもしれない。無理やりに、個性や差異性を生み出そうとする状況そのものが、「差異」さえも反復される惨劇を表しているのだろうか。

引用にある、「差異化の道具であるはずの音楽が、反復の場となる。それ自身は、商品のなかに差異を解消し、匿名化し、スターという存在のなかに自らを隠蔽する。(ジャック・アタリ、2012、9-10)

という文章はおそらく換言すると、

「独自の世界観を表現するという意味で、差異を生み出す音楽であったが、2つ目の系(レゾー)や3つ目の系(レゾー)を経て、資本主義の都合の良い様に商品化され、演奏が反復という個人に適した『もの(object)』と化し、それ自体、特有の差異性というものを持ち合わせていないにも関わらず、スターという一時的であるにせよ大衆への影響力を持つトークンによって、そうでないように見せている」

ということではないかとワタシは推測する。


記号について


音楽は、記号そのもの。純粋記号(ジャック・アタリ、2012)。つまりは、音楽というものは、鉛筆やケーキや靴のような実体ではないということ。それ自体が、実際には触れることの出来ない記号であり、情報としてしか認識されることしかないもの。当然、実態に依存できない分、それ自身は独特な価値、固有の意味、「差異性」を保持していなければならないということであろう。

やはり、音楽は純粋な「差異化の道具(ジャック・アタリ、2012)」であるのだ。それ自身が道具でもあり、対象でもあるのだと考える。

溢れる記号。

先ほども書いたように、「モノ」そのものでは、売れなくなる時代。(君たちは「鬼滅の刃」なるものが、どうして腐るほど、色々な商品をコラボしているかを理解することが出来るだろう。)特別なイメージがなければまともに商品が売れないのだ。或いは、記号のみが消費されるのだ。

そして、幸か不幸か、音楽というものは、記号という特殊性を表現する(というかしなければならない)。それ自身が、記号であることを避ける事は出来ない。

しかし記号が社会を覆う。

記号が大衆化する。大量に発生する。

記号しか人々は気にしなくなる。

記号を消費し、

記号に操作され、

記号消費をアイデンティティとし、

記号を誇り、

記号を愛し、

記号を自らも生み出す。

記号が、どこまでも追いかけてくる。(そこから逃げるのは、社会から追放されるようなものかもしれない。)

差異が追放された論理のなかに、失われた差異を求めんとする苦悶。」(ジャック・アタリ、2012、9-10)という文は、まさにヨルシカの「盗作」のようであると感じられる。

記号だらけのなかで、記号を求む。否が応でも、「差異」を求める。しかしそれは、既に誰かの模倣でしかない。そのようにしかみえない。

「自分の欲望が、他者の欲望でしかない」(宇波彰、2017)というラカンの考えを思い出す。

何かを成そうと、或いは何かオリジナルなものを創ろうと思っても、それは模倣なのである。「差異」と持たせようとしても、その「差異」すら誰かの真似事でしかなく、また同質化した社会における「差異」は、終局、プラットフォーム上の個性、差異でしかない。それでも、「差異」を求める。求めるしかない。やはりどこかに、本当の「個性」みたいなものがあるのかもしれないと思って。ない個性を探してみる。

自分らしさを、それを音楽というものを通して表現したい。しかし、本当の自分らしさはどこにあるのか。何かが足りない。オリジナルは、どこかの作品から。つまり盗作(オマージュ)。差異性のない分かり易いスター性で目一杯隠した「没個性」しか、そこには残っていない。

なにもない。なにも残っていない。その時には、何があるのか。それが恐ろしく、しかし美しい。空っぽに空いた穴。埋まることの無い穴。真の、完全無欠の「私」の不可能性。足りない。永遠に埋まることの無い。でも、それが私のものになれば・・・。

また探してみる。でも、どうしても「盗作」(オマージュ)の域を出ることが無い。音楽の四つ目の系(レゾー)の延長線上のもの。想定されてしまうような個性。

ヨルシカは、「盗作」だけではなく、作品全体と通して、近代に現れた複製、没個性的な音楽、記号に溢れる社会、資本主義、記号消費、個性の没個性化、反復の暴力、商品化する音楽

こういったもんを表現している曲が多いのかなと感じます。




ちなみに、

「盗作」を英語で表すと、「plagiarism」という表記になる。(トレーラーに表記もされている。)ここから、トレーラーを見てもられば分かるのだけれど、「a」「r」「s」という単語を取ると、「plagiism」という表記になる。「plagiism」を、「plagium」とみなすと、不思議なものが色々見えてくる。

「plagiarism」から、「ars」を取ると、「plagium」が出てくる。「plagiarism」は、「盗作」であり、「ars」は、「芸術(art)」を意味するラテン語であり、「plagium」は、「盗作」を意味し得るラテン語である。

「盗作(plagiarism)」から、「芸術(ars)」を取り除くと、また「盗作(plagium)」が出てくる。これって、どういう解釈ができるのでしょうか・・・。


p.s.

四つ目の系(レゾー)がなんだかんだ・・・書いている所なんですが、「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」をよくよく読み返してみると、少し異なる解釈というか、あまり納得のいかない形でヨルシカさんの作品を解釈することに参考にしていたので、いずれはより正確な意見を書こうかなと。とりあえずこの記事は、もしかしたら間違っている恐れのある記事ということで、そのまま残しておこうと思います。



今日も大学生は惟っている。


参考・引用文献

宇波彰.2017.ラカン的思考.作品社

ジャック・アタリ.2012.ノイズ 音楽/貨幣/雑音.(金塚貞文訳).みすず書房

ヨルシカ.2020.盗作. Universal Music Japan

ヨルシカ.2020.思想犯. Universal Music Japan

ヨルシカ.2019.だから僕は音楽を辞めた. Universal Music Japan



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