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過程の中の...

終わり良ければ総て良し、といったか。なら、この生が良しとされることはありえないことになる。終わりという終わり、或いは始まりという始まりは、十全な、完全なる、唯一無二の、真の終わりや始まりではなく、ただ過程に中に布置されているだけの虚構なのではないか。

今ワタシは生きている。いつの間にか生まれて、いつの間にか自意識が反射的に芽生えていて、いつの間にか死に向かっている。人間は、いやあらゆるものは、生きることしか出来ない。いや正確にいうならば、生きていることしか出来ない。生まれるという行為や行動(?)は、ワタシが有意志的に、自ら望んで行ったことでもない。いつの間にかただそこにいたのだ。この意味では、ワタシはゲームのキャラクターと、なんら変わることは無い。また死ぬことも出来ない。ワタシは自分を殺すことは出来ても、ワタシ自身が死ぬという行為を完全に見届けつつ、「死ぬ」という行為の全容を終えることは、不可能だ。

人間は、「生」と「死」との間で宙ぶらりんなのではないか。生の根源は、見えないどこかとして繋がっていて、死という終着点もまた見えることのない遥か先として存在している。人間の生の連鎖は、その宙ぶらりんのとこだけがくっきり見える。宙ぶらりんの中から、「生」が生まれる。そうだ。その中に「生」の始まりがあるはずだ。だが、生きている人間すべては、自分の始まりの「生」を見ることが出来ない。ましてや他者もである。人間の生はこの意味では、実は連続的ではなく、非連続的なのではないかとも思える。完全に、繋がっているという部分が見えない。その部分を見ようとしても、親の中に存在した、ワタシの始まりは見えない。理解されない。どうして、アンタはワタシの親だなんて言えるんだ?

遺伝子か。そうか。でもそれは、始まりでもなく、終わりでもない。中間の情報でしかないのではないか。一致しているのは、その中間だけだ。ワタシの生と死は、誰にも分かりはしないのだろう。過程の中にずっと居続けなければならない。人間は、自分の終わりすらも、見届けることすら許されない。死とはとても不思議なものだ。死の魔法という言葉があるくらいだから。死は見えない。完全なる死、真なる死というもの、中心にあるその死を、捉えることはできない。だから、死というものは魅力的なのかもしれない。掴もうと思っても、絶対にこの手に絡めとられることのない。

死んでくださいなんて、とんだ無理をいいやがる。人間は死ぬんじゃない。どこかに行ってしまうのだ。死ぬという言葉として、「逝く」という言葉があてられるのも、死という行為そのものの不可能性を表しているのだろう。身まかる。この世をはなれる。はかなくなる。これらもまた、「死ぬ」という意味だ。「pass away」「sleep with fishes」これもまた、「死ぬ」という訳になる。ワタシは死ぬこともできない。生まれることも出来ない。不可抗力と不可抗力の間隙で、その過程の苦味をじっくりと噛みしめながら。「死」とはなにかって、そんな今さらなということを疑問に感じ始めてしまった。でも今一つ、この未熟な青二才が思うことは、「死」は実在するものではないということだ。絶対にたどり着くことの出来ない領域。死のうと思っても、せいぜい出来るのは自分を殺すことくらい。死ぬことは出来ない。なあさ、「死ぬ」って、どういうことだろうね。

今年一年も、相変わらず、そういう哲学的(?)問に、立ち向かおうと思う。その為にも、もっと本を読まないとね。知らないことが、おおすぎるけん。



今日も大学生は惟っている



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