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#1 親に捨てられた日

物心ついた頃から
父親からは
「お前は俺の子じゃない」
と言われてきました。

その言葉は頭にずっとこびりついていて
学校で、遺伝についての話があった時に
どうも似ていないと。
弟と妹がいましたが、
どうも似ていないと。

それに、弟と妹は優遇されていました。
幼少期、父親の実家に住んでいましたが、
2人の可愛がられようと言ったら。

かと言う自分は、
ある時は、橋の欄干から外に放り出さられ
知らない場所でおろされて彷徨わされ
家を出るまでの間、暴力は日常茶飯事。
殺されかけた事は何度もあります。

時は、20歳の夏。

自分は、専門学校を卒業したものの
就職ができず、自宅警備員をしていました。

就職するためには、誰とも会っちゃいけないと
自宅にひきこもり、就活をして、
両親からも早く就職するようにけしかけられ
ノイローゼになっていました。

そんな夏。
リビングでテレビを見ていると
ヒステリーになった母親がとんできました。

「これにサインして!」

そこには『離婚届』と書いてありました。
戸惑う自分に矢継ぎ早に

「お父さんも良いって言ってるから!」

ヒステリーになった母親は止められません。
今でも、すぐ沸騰する
ヤカンみたいな母親に困らされてます。

その時は、それがいけない事と知らず
父親の部分を書いてしまいました。
それがすべての始まり、
パンドラの箱が開かれてしまいました。

まずは、戸籍謄本が必要になり
取りに行った帰りの事。
一年前に知った母親の知り合いの
老夫婦の所に来るように言われました。

赤の他人の老夫婦を挟み
「あなたはね、お父さんの子供じゃないの」
その前に戸籍謄本取る時に役所の方に言われて
知ってしまっていたのと、薄々分かっていたのと、
なんかよくわからない状況に、
思わず笑ってしまいました。

そこから名字を変え、
定期的に老夫婦の家に通わされる事になりました。

ちなみに、もうこの時点で、
母親と妹は、気づくといなくなっていました。
冷蔵庫の中身まで根こそぎ持っていきました。

当時の友達が家に来てくれた時に、
その惨状を見て「あっマジだったのか」と
絶句していました。

母親が最後に言ったのは、
「何かあったら、あのおばあちゃんたちの所に避難してね」
その言葉を最後に、
かれこれ12年ぐらい顔を合わす事はありませんでした。

そのおばあちゃんたちと言うのは、老夫婦の事。
さらに、この老夫婦と周辺は新興宗教に
どっぷりな人たちが暮らす一帯でした。

自宅警備員の自分には、お金もなく、
就活の交通費もないため、食うに困る状況でした。
致し方なく老夫婦の家に行く事になりましたが、
説教の数々。
夕方5時から明け方5時まで、
正座で、食事ももらえず、ずっと
「死ね」とか「あんたのせいで親が世界が」とか
流石に、こたえてしまって、
帰りに幻覚が見えました。
自分が首をつっている幻覚を。

しだいに、その家には行かなくなりました。
ですが、食うに困る状況に、
残っていた醤油を煮て飲んだりもしました。
もちろん、倒れましたが、
誰にも助けられる事なく、
気絶から目が覚めて自力で安静になりました。

そんな中で、なんとか見つけたアルバイトも
養父の「今年いっぱいしか家にいさせないからな」
と言う脅しにあい、辞めざるおえなくなりました。

辞める事を告げたら、心配されて、
市議会議員を紹介されたのですが、
この物件が良いよと言われるだけで
その前にお金がないんですけど?状態。

そんな事もありつつ
1月1日。

朝、鈍痛と怒声で目が覚めました。

「いつまでいるんだおら!」

養父の怒声と蹴りとパンチ。
ずっと蹴りまくられていました。
自分も、もう、無理だと確信して
荷物をまとめて出ていきました。

所持金は、1000円のみ。

そこから、いろんな事がありました。
12年ぐらい経って、
血の繋がりのある祖父が倒れて
それで、実母とも再会。
ですが、別の男と結婚していましてね。
今は、もう、親からも永遠に知られない
別の地に行きたいと思っています。

いろいろあった事は、
また、別の機会に。。。

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